とろ火について

24.05.06現在
はじめに
最初に。これから書くすべて、僕がやってみるすべてに織り込まれている想いをお伝えさせてください。
小学3年生の夕暮れ。リビングで過ごしていて、ふと気付いた事実。人は、みんな死ぬ。僕も友達も兄も母も父も。みんな死ぬ。怖くて、台所にいる母のもとへ駆け寄った。
「いつか死ぬのに、なんで生きるんだろう」
あの日から僕を動かし、ときに暗闇に誘い、それでいて僕を生かしている想いです。
「考えるだけ無駄だよ」と何度も言われました。「死ぬときにわかるものだから、ただ生きればいい」と何度も言われました。「だから、しんどくなるんじゃないの?」と何度も言われました。
この想いに蓋をしようとしたこともあります。確かなものがあるはずだ、救われるなにかがあるはずだ、と探し求めました。蓋をできたと思いました。これで真っ直ぐ歩けると。でも、蓋の下で僕は腐っていきました。
生と死を不思議に想う気持ちは、絶望と紙一重です。虚無感は、僕を支えると同時に飲み込んでくる。
大好きな小説『獣の奏者』(著:上橋菜穂子)の主人公は、作中でこんな言葉を書き残します。
自分はこの世に生きるものが、なぜこの世にあるのかを知りたいのです。生き物であれ、命なき者であれ、この世にあるものがなぜそのようにあるか、自分は不思議でなりません
なぜ生きるんだろう。なぜ僕は“僕”なんだろう。なぜ“いまここ”にいるんだろう。不思議さと絶望を行ったり来たりする僕の足跡を、これから刻んでいくために。
とろ火について
「とろ火って、なにしているの?」
興味を持ってくれた人に尋ねられたとき、僕はいつも迷子になってしまいます。伝わるように言葉を重ねれば重ねるほど、身体を渦巻くものたちとのズレが明確になっていく。そうじゃない、そんなことを言いたいわけじゃない。そして匙を投げてしまうんです。「自分でもよくわからないんですよね」と。
よくわからない活動。それは確かでもあるけれど、そこで足を止めたくなる欲望へのあらがいこそ、とろ火で大切にしたいことです。わかりにくさに両手を挙げず、指先でつつき、手のひらで撫で、おずおずと抱きすくめる自分でいたい。きっと、他でもない僕が必要としている活動が、とろ火なのでしょう。
とろ火ってなんなのか。その答えに輪郭を与えられないと知りながら、それでも言葉を重ね続けることからはじめてみます。
その人を“その人”たらしめるドロっとしたもの
すべての企みで掲げているのが、この言葉。とろ火は、ドロっとしたものを探る活動です…とお伝えしたくなりますが、これだとなにも言ってないのと同じ。この宙に浮いている概念を捉えてみようと思います。
最初に、その人と“その人”について。僕という人間は、たくさんの要素で構成されています。1995年生まれで、身長176cmで、いくらが好きで、お酢が嫌いで、文章をよく書いていて、サッカーが好きで…などなど。これらは、間違いなく僕に付随するものです。
じゃあ、これらで“僕”という存在が確立されるかというと、決してそうではなくて。例えば「なんでいつか死ぬのに生きるのか、ずっと不思議に思っている」とか、「いまを強く感じる青春を探したい」とか、「迷い続ける人でいたい」とか。奥の奥に流れていて、ときに噴火する制御不能のものこそが、僕を“僕”にしてくれている気がする。
これを平たく言うのなら「自分らしさ」となるのでしょうが、ちょっと質感が違う感覚があります。なんて言うんでしょう。そんな綺麗なものだけじゃないはずなんです。安易に出せないものだったり、誰かの目に触れた途端に溶けてしまうものだったり、苦しみやしんどさや怒りだったり。
好きな小説『僕のなかの壊れていない部分』(著:白石一文)に寄せた窪美澄さんによる書評に、こんな一節があります。
自分のなかに大きな岩のようなものがごろんとある。表面はもうすっかり冷めてはいるが、その内部にはどろりとした高熱のマグマのようなものが詰まっている。これを吐き出さないと、形にして残さないと、私は死ぬときに大きな後悔をするのではないか。そう思った。
僕が「ドロっとした」という言い回しを選んだのは、この一節にあるマグマをイメージしたからかもしれません。決してさらりとしておらず、生易しいものではない。でも、たしかな“その人”を支えるもの。ただ生きのびているのではなく、他でもない自分として生きている実感をもたらすもの。
思考とことばが生きる意味
なんで、このドロっとしたものを探りたいと思ったのか。
冒頭にも書きましたが、僕はずっと、生きる意味なんてないんだよな…という虚無感を抱えています。生きることに意味なんてない。なのに生きている。その事実が不思議で、怖くて、目を背けたくて、味わいたくて。
だからなのか、ふと気がつけば「生きていていいのかなぁ」が頭に浮かんでいます。別に罪悪感もないし、なにか大きなものに押し潰されそうなわけでもない。
でも、こんな虚ろを抱えたままの自分は、なんだか人生の方からNOと言われている気がして。絶望するでもなく、焦るでもなく、ぼやぁっと「生きていていいのかな」が浮かんでくる。
そんな想いから逃れようと必死でした。「生きる意味なんてない」を抱えながら生きていく自信がなくて、社会的価値を求めたり、他人からの承認を求めたり、立派なことをしようとしたり。その結果、うつ病となったこともありました。いまでも、落とし穴のように嵌ってしまうことも多い。
でも、なんか癪だなぁとも思う自分もいて。「生きる意味がないから、生きるのをやめる」って、なにかに負けた気がする。人生からのNOに従ってしまいそうな僕が嫌だ。そんなの、まっすぐすぎる。
そして抱えはじめたのが、「思考とことばが生きる意味」という言葉でした。頭のなかを渦巻く“思考”。そして、それを外に出すための“ことば”。ことばを平仮名で書いているのは、言葉だけでなく、身体表現や絵、写真、料理、活動など、さまざまな形を想定しているから。
“思考”によって編まれていく“その人”が、“ことば”という媒介によって世界に現れる。ここに、ほかでもない“僕”が生きる意味があるのではないか。まったく同じ現象を経験しても、僕とあなたとでは、思考もことばも違っている。そして、そこには唯一性がある。
この思考とことばを引っくるめたものが、その人を“その人”たらしめるドロっとしたものなんだと、僕は信じています。
そして、これは完全なるエゴですが、大切な人の思考とことばが世界にあふれていて欲しい…とまで思っていて。そうじゃないと、勝手に寂しくなってしまうんです。
大切なあの人があの人である所以が転がっている。そんな世界じゃないと、僕は生き続けられない。
繰り返しですが、生きる意味なんてないんです。僕もあなたもいつか死ぬし、継いでいった生命だって消滅していく。確固たる意味はない。“それでも”生きていくのなら、思考とことば、ドロっとしたものを見つめないと、僕はおかしくなってしまう。
ひとりだと、僕は“僕”になれない
思考もことばも、ドロっとしたものも。見つけたい、大切にしたいと願って、「はいどうぞ」と差し出されるものではありません。深く深く潜り続けた先や、傷だらけになって這い進んだ先で、ようやく転がり込んでくるものな気がします。
ほかの誰でもない“僕”として生きるって、ほかの誰もやってないこと。自分で考え、実験し、失敗し、唇を噛み、それでも考え…の繰り返しが必要になる。そこには、おのずとしんどさが漂っています。
だから挫けそうになる。仕方がないよな、と止まりたくなる。どうせ無理だ、と諦めたくなる。考え続けるって、大変なんですよね。さまざまな抑圧のなかで、“人間”ではなく“人形”になってしまう危険性がある。そんな流れに抗って、“それでも”を選ぶにはとてつもない胆力が必要です。
じゃあ、多くの人は思考を止めるしかないのか…というとそうでもなくて。ひとりで無理なら、誰かと一緒に考えればいい。ひとりだとわかった気になったり、匙を投げたりするのなら、揺さぶってくれる誰かと考えればいい。共に手探りで思考を進めながら、迷い、書を読み、語りあえばいい。
この誰かを、『闇の自己啓発』や『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』といった書籍のなかでは、「思考の共犯者」と呼んでいます。
ひとりだと、僕は“僕”になれない。だから、思考の共犯者を増やしたい。とろ火を外に開こうとしているのは、そういった理由です。
3つの地図
整理すると、とろ火は「思考の共犯者を増やし、その人を“その人”たらしめるドロっとしたものを探るための活動」とまとめることができます。これで伝わるのかはわかりませんが。
じゃあ、どんな活動をするのか。個々の企みは五月雨式に増えていく気がするので割愛し、ここでは大きな3つの地図を記してみます。
1.迷う
とろ火がまだ象られていないとき、とある本と出会い、質感が一気に変わったことがありました。その本は、『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』(著:瓜生崇)。入信脱会を経験した著者の経験と、脱会支援に携わるなかでの思考を記した一冊です。
多くの信者に共通するのは、正しさに依存する心理。苦難や苦痛におちいったとき、救われたくて、真理を欲してしまう。
この図式は、カルト宗教に限りません。「価値のある人間にならないといけない」と信じ、成功にしがみついている人だって、救われたくて必死なんです。体調を崩したときの僕は、まさにそうでした。
ぽっかりと口をあけた虚無感に飲まれないよう、「社会的に成功し、価値を示せれば楽になれるはずだ」と信じ込み、仕事に躍起になっていました。でも、走れど走れど首が絞まっていく。息が吸えなくなったのも、いま思えば当然です。
じゃあ、しんどさを持て余していた僕はどうしたらよかったんだろう。著者はこんな言葉を記しています。
脱会は迷っている信者を正しさに引き戻すことではない。正しさに依存して真実を抱きしめて生きている信者が、それを捨てて迷いに帰ることが脱会である。
迷いに帰る。なんて厳しい言葉なんでしょう。しんどい道です。でも、その先にこそ、“僕”や“あなた”がいる…いや、いないかもしれません。断言すると、迷うことが正しさになり、迷えなくなってしまう。迷い、迷うことさえも迷いながら、生きていく。自縄自縛におちいっていますが、それこそが迷う姿勢。
迷っていれば、世界と出会いなおし続けられると思うんです。自分が固定化されず、世界が新しい表情を見せてくれる。ぐらつく足場のうえで生きていくって、そういうことなんじゃないでしょうか。
2.書を読む
本という存在に、小さい頃から惹かれ続けてきました。床に座って、あるいはベッドに寝転んで薄い紙をめくってみる。たったそれだけで、ここではないどこかへの旅がはじまる。そんな魔法に魅せられて、ひたすらに本を読んできた人生でした。
この現実が滲む世界線もそう、本当にあるかもしれない異世界も、誰かの頭のなかや心のなかもそう。ここではないどこかへの旅は、僕を迷いに帰らせてくれる。
『はみだしの人類学 ともに生きる方法』(著:松村圭一郎)に、こんな一節があります。
「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。
「わたし」以外と出会うことで、新たな「わたし」が浮かび上がる。この感覚が、本に惹かれ続ける理由のひとつ。
いままで出会ってきた本たちは、僕が出会ってきた思考の共犯者とも言えます。コミュニケーションは一方的かもしれませんが、彼ら彼女らの思考とことばを一心に受け取ってきました。読書は、誰かを自分の心にお招きし、腰を据えて語りあう営みなのかもしれません。
本が傍らにありさえすれば、それはもうひとりではない。ページをめくれば、思考の共犯者との旅がはじまるのですから。
3.語りあう
対話、ということばをよく耳にします。僕自身もよく使うことば。宇田川元一さんの『他者と働く』では、対話を「新しい関係を構築すること」と言い表しています。
その他の本も読むなかで、僕の内側でこんな整理が生まれていきました。
会話とは「互いの世界観を出さずとも成り立つコミュニケーション」であり、対話とは「互いの世界観をすり合わせるコミュニケーション」である。
では、僕が掲げようとしている“語りあう”はなんなのか。それは、「互いの世界観を存分に味わうこと」なのではないか、と考えています。
対話より、ちょっとお行儀が悪いかもしれません。でも、語りあうには、語ることと聴くことが往復運動しないといけない。それは、前のめりになりつつも、目の前の人を感じようとすること。
この往復運動のなかに、自らの“その人”も浮かび上がってくる。ドロっとしたものの循環。
気持ちいいねぇと伸びをしながら、家族・友人と語りあえたのなら、それだけでいいのではないか。そう思っている節もあります。まだまだ思考途中の営みですが、それこそ語りあいながら探っていければ。
よくわからない、けど。
とろ火について語ることは、森に分け入っていく感覚があります。空を仰ぎ、枝を避け、根っこをまたいで進めど、緑は濃くなっていくばかり。深い森にたゆたう空気に自分が溶け出していくような。心許ないのに、なぜか心地よいような。
冒頭の方に、「とろ火はよくわからない」と書きました。
わかるとは「分かる」と書くよう、世界を分節する営みだと語る人もいます。例えば、鈴木大拙という思想家がこう書き記しているように。
分割は知性の性格である。まず主と客とをわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。主客の分別をつけないと、知識が成立せぬ。知るものと知られるもの——この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次ヘ次へと発展してゆく。
なにかを“分かる”ことには、そのなにかと自分が“分かれている”という前提が隠れている。だったら。わかりやすいもの、つまりは“分けやすい”ものが増えれば、それだけ自分と“分かれる”ものが増え、自分を見つめやすくなる気がします。
けれど、鈴木大拙は“分ける”について警鐘を鳴らしている。
もうひとり、養老孟司さんも「世界をわかろうとする努力は大切である。でもわかってしまってはいけないのである」と書いています。
これらの思想から僕が勝手に感じ取っているのは、わかろう・分けようとするけれど、わからない・分けられない…という感覚が大切なのではないか、ということ。
きっとですが、「世界はわかんないんだよ」と匙を投げることは、世界と自分をきっぱりと分けてしまっている。そうじゃなく、わかろうとしてもわからない、“それでも”わかりたい…という逆接にこそ大切なものが宿っている気がするんです。
森に奥深く入ってはじめて、心もとなさと心地よさを抱きしめられるよう、よくわからないけど語ってみる・考えてみる先でしか感じ取れないものがあるのではないか。そんな直感をもとに、よくわからない活動を目の前にして言葉を積み重ね続けたいのかもしれません。
24.05.06現在