<する/される>の関係が溶けていく。不器用に生きのびあう研究会『ケア宣言』の振り返り

不器用に生きのびあう研究会

先日8月23日に開いた、『ケア宣言 相互依存の政治へ』を手がかりにした「不器用に生きのびあう研究会」の振り返りです。会のなかの言葉や、それを見つめ直して浮かんでくるものを綴ります。

タイトルにあるよう、この本は“ケア”を中心に据えた本。いろいろな場面で聞く言葉だけれど、うまくつかめていない感覚があり、読んでみたいと思った。

会のなかでも「“ケア”って聞いて、どんなイメージが浮かびます?」と問うたところ、「思いやり」「優しさ」などが挙がった。僕もそう。どことなく自己犠牲のような雰囲気もまとっている感覚だった。

そのなかで、本書の「ケアには相反する感情がある」という記述が話題にのぼった。

あらゆる生物のニーズや傷つきやすさに対して十分に注意を払うこと、そしてそれゆえ脆さに直面するということは、やりがいのあることであると同時に、極度の疲労を伴いうるという現実です。
(p.49)

どことなくあたたかい印象を持ってしまうけれど、ケアはそれだけじゃない。例えば、ケアの営みのひとつである子育て。それは体温のある営みでありつつ、産後クライシスなどの言葉もあるよう、さまざまなしんどさも常にある。

ケアの一面しか見ていないと、ケアをしていてしんどくなったとき、そうなってしまった自分を責める視点が生まれ得る。自己犠牲的な営みなのだから、しんどくなんてなったらダメだ、と。

でも、思いやりや優しさがあったら、負の感情が全く出てこないなんて有り得ないことで。その認識を自他ともに持つことは、大きな意味がある気がする。

生きのびあうためには、誰しもがケアの担い手にならないといけない。そのとき、ケアが神格化されてしまうと、どうしても偏りが生まれていくのではないか。

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ケアの具体的な営みとして挙がった介護や子育てでは、ときおり「〜〜してあげる」という言い回しが登場する。

僕自身もお子と過ごしていて、「遊んであげる」とポロッと言ってしまうことがある。

そこへの違和感をはなしていると、「それって<する/される>の上下関係が生まれてしまっているのかもしれない」という語りが。では、関係性が固定化されないケアってなんなのだろうか。

考えていくなかで、医療者の参加者がおはなししてくれた。

してあげる、って感覚になることもあるけど、それと同時になにかをしてもらっている、って感覚にもなる。患者さんから学んでいることはたくさんあって。それは上下関係ではない気がする。

ここに現れているのは、相互性だと思う。一方通行だと、それこそ関係性は固定化してしまう。“ケアを与える側”と“ケアを受け取る側”として、自他ともに認識してしまう。

けれど、患者さんからなにかを受け取っているよう、人と人が関わるときに一方通行であることは有り得ないのではないか。

さっきの例を出してくれた人は、こうも話してくれた。

相手は自分とは違う状況、違う存在だから、なにかしら学ぶことがあるはず。与えているんじゃなくて、与えあっているのかも。ケアをするっていうより、自分に補えるものを渡しあっている感覚かなぁ。

与えあっている。渡しあっている。きっと、相互性は自明にそこにある。なのに、気付けなくなってしまっている。

それは、会のなかで「最近、ケアされたときってあります?」という問いが出たとき、沈黙が降りたことからも窺える。

「ケアは、いわゆる弱者がされるもの」と仮に認識していると、健康時には「そもそも自分はケアされる必要がない」と思い、そこにあるはずのケアが視線からはずれてしまう。

本書のなかでは、ケアのサービス化によって、ケアのニーズが隠蔽されているのでは、という描写があった。

富裕層は、お金を支払って食事や清掃などを提供してもらっている。それは、ケアされるニーズを有している、ということなはず。なのに、解雇や後任を雇う能力を持っていることで、ケアの担い手を支配的な関係に置いてしまい、自分が多くのケアで生きていることが隠されていく。

すでに受け取っているケアに対して、目を開いていく。そんな眼差しも必要になるのだろう。

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「<する/される>の関係が固定化せず、流動化していくことは、互いが溶けあっていく感覚なのかも」という話が出た。

たとえば、おすそわけ。畑をやっている参加者の方は、野菜を近所の方におすそわけしたとき、満たされた感覚があったという。それは、「受け取ってもらえた」という感覚につながっているとのこと。

野菜を渡した身だけれど、それを受け取ってもらえたという逆矢印のものも発生している。これは、<する/される>ではなく、同じ共同体として一緒に過ごしている、という感覚なのではないか。

以前録ったラジオで、「誰か・なにかに応答するって、生きのびあうにつながるのでは」というはなしをした。なにかへ応答を返したとき、一瞬にして<受ける側/贈る側>の関係性がひっくり返る。

この応答が連鎖していくと、関係性がひっくり返りつづけ、次第に溶けていくのではないか。

共にいること、混ざりあうこと、溶けあうこと。ここに生まれる、共同体感覚のような心地よさ。そこには、生きのびあっていく手がかりがある気がする。

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いろいろな方向にはなしていると、「結局ケアってなんなのかわからなくなった」という声があがってくる。もしかしたら、明確な営みなのではなく、多角的にとらえるべき営みなのかもしれない。

そう考え、次の手がかり本は、文学研究者がケアについて論じた『ケアの倫理とエンパワメント』という本にした。

9月27日の20時から、オンラインにて次回の研究会を開くので、よければご参加ください。