
先日、仲間と開いた「死と生にまつわる問いに集う」と銘打った、コンパッションカフェ。
「死」と「喪失」を共に受けとめ、助け合う“コンパッションコミュニティ”という耳馴染みのない思想を、自分たちでも探りつつ、みんなで味わってみようと開いています。
6月に開いた会では「生きる価値とは?」と、ある種ストレートな問いを掲げましたが、今回は参加者の方々から気になっていることや悩みをお聞きし、いくつかの問いを場でわかちあう形に。

僕がいたグループで扱ったのは、ひとりの参加者が出してくれた「人間の尊厳に関わる発言に出会ったとき、わたしたちはどう対応したらいいのか」でした。
会の最中も、終わったあとも。ぐるぐるぐるぐるしている。この渦を深めつつ広げるため、今回もつらつら書いてみようと思います。
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この問いを聞いて、とある場面が頭に浮かぶ。知人が数人集まっている、なにげない場。そこまで関係が深くない人が「女性なんだからさぁ」という言葉を発していた。
ざわりとする。僕はその言葉で直接傷つくわけじゃなくても、身体が少し堅くなる。
そのほんの少しの硬直のあいだに、場の空気は流れていった。なんの澱みも生まずに。
問いに戻ると、僕はそういった発言に出会っても反応できなかった。喉がぐっと詰まり、言葉を発したいのに発せない。
そんな身体感覚を思い出しながら、参加してくれた方のおはなしを聞く。
その場では立ち止まれなかったけれど、考えてみたいと思ったのは「わたしがその発言にスポットライトを当てることで、逆に傷つけてしまうのではないか」という言葉。
尊厳の欠けた言葉の発話者に対して、「それはよくないんじゃないか」と対応したとする。そのとき、平穏に「そっか、そうだよね。申し訳なかったです」となればいいのだが、そうならずにヒートアップしたとする。
……想像するだけで、地獄絵図だなぁと思ってしまう。その場に、発話の矛先になり得る人がいたのなら、なおさら。
少し違うかもしれないが、利他について論じた本のなかに、「ほどこしのような行為は、他の人に見られない場所で行うほうがいい」といった趣旨が取り上げられていたことを思い出す。(うろ覚えですが…)
<守る/守られる>という関係性ができあがってしまうように、<加害者/被害者>の関係に閉じ込めてしまうような。
発話のあった場でヒートアップすると、そんな可能性が生まれてしまう気がする。
けれど、その可能性を考慮している時点で、自分のなかに「あの人は傷つけられて可哀想な人」というレッテルがうっすらとでも存在しているのでは、とも思えてくる。勝手な脆弱性を押し付けている。
そう考えると、「傷つくんじゃないか…」という逡巡は自分勝手な妄想でしかなくて。そこでもぞもぞしていることには、あまり意味はないのではないか。それは想像力とも言えるけれど、狭い想像力でしかない。
もし仮に傷つけてしまったとしても、そのあとの振る舞いの方が大切なのかもしれない。
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会のなかでも、「自分が傷つけてしまうんじゃないか」という可能性をめぐって、はなしが重なっていた
心に降り積もっているのは、「気を遣っていると、誰も傷つけてはいないかもしれないけど、会話が表面的になっている気がする」という言葉。そして、それを受けての「配慮ありきではコミュニケーションできないのでは」という考え。
先日も似たはなしを書いたが、誰かと関わることにおいて、傷つき/傷つけられることは、完全には避けられないと思っている。逆に言うと、避けようとしすぎると、誰かに触れることができなくなる。
きっと僕は、その痛みへの恐れを抱えながら、「それでも…」と身体を動かす修行中。その“修行”という感覚を、より捉えやすくなった言葉にも出会えた。
ひとりの参加者は、尊厳に欠けた発言があったときに、「自分もその言葉を発してしまう可能性がある、と思いながら、発言を受け止められるかどうか」と言っていた。
これは「どう対応するか」という問いを眼差しなおしている。「対応」という単語には、どこか相手を相対化しすぎている視点がある。自分と相手がきっぱりとわかれている、とでも言うのだろうか。
それと比べると、「自分もその言葉を発してしまう可能性がある」という想いは、相手のなかに自分を視ている。もちろん自分と相手は違うのだけれど、同じでもある。
違う人間だけど、同じ人間。同じ人間だけど、違う人間。
この流れのなかで「その誰かの発言は、まわりまわって自分を傷つける可能性もあるんじゃないか」という参加者からの言葉が光ってくる。
たまたま出会った尊厳に欠けた言葉。その刃先は自分じゃないかもしれない。でも、意識的であれ無意識的であれ、刃を握っている人が奥にいることは忘れてはいけない。切っ先は、いつ自分に向くかもわからない。
以前、友人とはなしていて、「遠くの戦争のはなしを見て見ぬ振りするのって、僕たちの日々に問題が立ちはだかることとつながっている気がする」と感じたことがある。
戦争は大きな暴力だけれど、それと日々の小さな暴力とは、絶対に無関係じゃない。他でもない自分が加担しているかもしれない。
同じように、尊厳に欠けた言葉も多くのものへとつながっているはずで。その糸には自分も絡み合っている。
きっと、その場にいるどの人のなかにも自分はいるし、自分のなかにもその人たちがいる。それは共通点であったり、共感できる要素だったりなんてものではない。「みんな同じ人間」とわかったような言い回しでもない。「みんな違って、みんないい」でもない。
みんな違うんだけれど、つながっている。つながっているけど、みんな違う。
「この感覚を見つめるのが“コンパッション”なのかもね」と、ぐねぐねとしていた時間から急にキレイな珠が転がってきて、会の時間は終了した。
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ぐるぐる考えていると、いつも「正しさに寄り掛かるなんてできないんだよなぁ」とため息をついてしまいます。誰かを断罪できたら楽だし、、自分は間違うことなんてない、と思っていれば、世界は驚くほど単純になるのに。
大切な本過ぎて、僕の文章に何度も登場している『なぜ人はカルトに惹かれるのか』という本には、「脱会支援=迷いに帰らせること」と記してあって。
今回の会のように、誰かと言葉を重ねていく営みは、僕にとって迷うことなんだと思います。一緒に迷いつづけるための営み。
そう考えると、“コンパッション”と“迷う”のあいだにも、まだ僕には捉えられていない糸が張られているのかもしれません。それに目を凝らしていこう。
改めて、会にご参加くださったみなさん、ありがとうございました!