不器用に生きのびあう研究会
不器用に生きのびあう研究会は、“生きる”ために必須となる“生きのびる”について、さまざまな人と一緒に頭を抱え、その先で不器用に生きのびあう道を探る研究会です。
研究会は、月に一度の頻度で開いています。毎回、手がかりになりそうな本を決めてはいますが、あくまでも本は呼び水で。脱線ばかりなので、ご心配なさらず。読んでいなくても、手元に本がなくてもご参加いただけます。
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生きると生きのびる。この言葉たちを使い分けるようになったのは、穂村弘さんの『はじめての短歌』を読んだからでした。
そもそも、この本を知ったのは好きなポッドキャストで紹介されていたから。「この本では、“生きのびるための言葉“と”生きるための言葉“をわけて考えているんです」との語りを聴いて、すぐに読みはじめました。
穂村さんは、本のなかでこう語っています。
僕らは“生きのびるため”に生まれたわけじゃない、“生きるため”に生まれてきたんだ、と。さらには、生きるためには生きのびないといけないけれど、生きのびるために生きているわけじゃない、とも。
微妙なニュアンスで、でも確かにわけられた、生きる/生きのびる。とろ火で掲げている「その人が“その人”として」という言い回しは、前者の生きるとほぼ同義。どうやって生きるのか。それを追い求めたくてはじめた活動でもあります。
けれど、穂村さんも目を背けていないよう、「生きるためには生きのびないといけない」んです。どうやって生きるのか、という問いの裏には、どうやって生きのびるのか、が常に存在している。
でも、生きのびるために生きているわけじゃない。自己責任論も強い社会で、生きのびるを掲げすぎると、生きるは塗りつぶされていく。それは忘れてはならない。
そう考えたとき、とろ火として「生きるにつながる生きのびるってなんだろう?」を見据えていきたいと思ったんです。それは、生きる/生きのびると分けるのではなく、一体となったり、循環したりするような。不思議な生きのびる。
僕はこれを「不器用に生きのびあう」と名付けてみました。すぐにつまずくけれど、決して綺麗なものにはならないけれど、だからこそ誰かを必要にして、誰かに必要とされる。その心地よさと居心地の悪さは、生きるにつながるはず。
…と書いたものの、相も変わらず思考だけが先行しているのが事実で。でも、この道を他の人と探ろうとすることが、すでに「不器用に生きのびあう」なのかもしれないから。
ご興味のある方がいれば、一緒に頭を抱えられたら嬉しいです。