6月14日、個人として参加している研究会「Compassionate Cites & Community連絡会」略して“CC会連絡会”にて、「生きる価値とはなにか」という問いを立てた場を開いた。この文章は、会が終わった夜に書いている。
コンパッションコミュニティとは…については、僕も全然理解できていないけれど、連絡会のなかでは「<「死」と「喪失」を共に受けとめ、助け合う “コンパッションコミュニティ”>」と記されている。
コンパッションにもコミュニティにも“Co”がついているように、自分じゃない誰かが大切になるんだろうな…という感覚だけはある。
そんな思想を探っているCC連絡会で、対話の場:コンパッションカフェを開いた。僕は全体ファシリテーターとして、グループ対話に加えて、全体の振り返りの場も担当。「生きる価値とはなにか」の思考についても振り返りたいけれど、思考ではない感覚はナマモノで。場を開いてみた感覚を、あたたかいうちに書き記して(書きなぐって)みようと思う。
今日の実感で深く残っているのは、問いをもとに語りあうときの「問い」がいかに大切か、という当たり前のこと。それはきっと、問う対象や言い回しだけではなく、そこに至る文脈まで含んだもの。
昔に取材した方が言っていた言葉を思い出す。
京都大学准教授の塩瀬隆之さんという方がいるんだけど、その方が「良い問いは仲間を作る」って言っているんだよね。
(中略)
答えが分かりきっている問いの周りには、誰も集まらない。けど、答えが見つかっていない面白い問いを掲げると、そこには人が集まってくる。
(人に流されたっていいじゃないか。日本一おかしな公務員・山田崇と考える、自分の想いを大切にする生き方)
良い問い。面白い問い。それはなにによって決まるのだろう。ある種のセンスなのだろうか。
きっと、それもある。方程式のように組み立てられる側面も必ずあり、学んだり経験したりする意味は多分にある。
一方で、計算できないものもある。それは、その問いに人格が宿っているか、だと思う。
それを感じたのは、今回の場の冒頭。「生きる価値とはなにか」という問いに決めた理由を、全体に共有しているときだった。
この問いは、場を開いた3人で話しあいながら決めたもので、それぞれの想いが込められている。僕はそれを含みこんだまま、共通していそうな部分を話してしまった。個別から共通性を抜き出すと、それは抽象的なものになり、「わかるけどわからないかも…?」というあやふやなものになってしまう。
僕自身、話していくにつれて、言葉が空回りしている感覚が育っていく始末。それを感じたからかどうかわからないけれど、CC連絡会の発起人の方が、少し合いの手を入れてくれた。そこから、僕は僕個人の話をすることができた。
会が終わったあとの振り返りで、「コンパッションカフェである特徴ってなんだろう?」という話になったときも、「問いを話すとき、私がこういうふうに悩んできた問いなんです、って共有するといいんじゃないか」という意見があった。
ここで言われていることが、人格が宿った問い、なのではないだろうか。その人がにじみ出ている問い、と言った方が僕のイメージに近いかもしれない。
そんな問いを話すとき、きっとその人は言葉につまる。悩んできた問いだからこそ、簡単には伝えられず、言葉を重ねようとして、それでも辿り着けない予感がして、呆然と立ち尽くしてしまう。けれど、再びの“それでも”言葉を重ね、問いの形にして、他者と背負いあいたい、という想いが、「良い問い」「面白い問い」になるのではないか。
そう思うと、「生きる価値とはなにか」という言葉尻だけで問いの質が決まるのではなく、そこになにをまとわせるかで変わっていくのだろう。
―――
その人がにじんでいる問いは、重い。人間の重みがつまっている。それを受けとった人は、おのずと重い言葉を探し出す。ここでいう重いは、暗いではない。空っぽじゃない、という感覚。この重い言葉がにじんでしまう場に、僕はどうしても惹かれてしまうのだと、今日改めて感じた。
そんな場は、まさにコンパッションなんじゃないかと思う。振り返りで「共感も大事だけど、わからないってことも大事」という話が出た。
これは友達とも話していたことがある。「わかるから一緒にいる」じゃなく、「わからないけど一緒にいる」って感覚を持つにはどうしたらいいんだろうねぇ、と。別の友達に呼んでもらったラジオでも、「逆接に意志が宿ると思う」と語った記憶がある。
(記憶があるといいながら、どの放送か定かじゃないのですが…
https://open.spotify.com/episode/5nWTpp3A7V34wJshCFTLZ2
or
https://open.spotify.com/episode/2GT9I2sI09qANtgNQqN9kf
です。どちらも推してしかいないラジオなので、他の回もぜひ)
辻村深月さんの『ぼくのメジャースプーン』という作品でも逆接の意志を感じ、過去に書き記したこともある。
人は自分のためにしか動けない。そう気付くと、自分の優しさも全て偽善なんじゃないか、と思ってしまう。思いやりへの抵抗を持ってしまう。
でも、大切な人を傷つけないためには、常に自問自答するしかない。迷い、悩みながら、大切な人と向き合うしかない。
迷い、悩むからこそ優しく出来る。
全てが自分のため、だとしても。
“『自分のため』の気持ちで結びつき、相手に執着する。その気持ちを、人はそれでも愛と呼ぶんです”
(『ぼくのメジャースプーン』辻村深月)
自分のため、だと気付いても、その気持ちを愛と呼べますか?
(https://note.com/sa_akutsu/n/n7aed41894128)
この逆接こそが、人が共に生きる可能性だと思う。わからないという事実は、距離・分離を生むと同時に、わかりたいという欲求にも繋がりうるはずだ。
友達との往復書簡で、こんなことを書いた。
社会学者のゲオルク・ジンメルという人が、<結合>と<分離>を論じているのですが、そのふたつは同じ行為の側面に過ぎないと書き記しています。結合するには、分離していないといけないし、分離するには、結合していないといけない。このアンビバレンツ=物事の両義性は、複雑怪奇な世界、および人間を捉える際に大切なんじゃないか…と、僕は半ば確信的に思っています。
(https://torobibook.com/tsurezure/231224/)
ジンメルさんの論点は難しくて、理解が不十分だとは思うけれど、この<結合/分離>を対立させるのではなく、ものごとが併せ持つ特徴と捉える視点は、場を開くうえでも大切な気がする。
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…と、いろいろ感じたり考えたりしたものの、これらの思想を場になじませるのが最も難しいのだよなぁ、と呆然としてしまう。
中頃で、その人がにじんだ問いが、良い問い・面白い問いなのでは、と書いた。それはつまり、その人そのものへの視点。
インタビューをしている友達が、「すべてのLIFEはおもしろい」と言っていた。この感覚だよな、と思う。“Funny”としてではなく、きっと“Interesting”としてのおもしろさ。そんな姿勢がないと、場において、その人なんてにじみ出るわけがない。
詩人のまど・みちおさんは、自身のことを「ふしぎがり」と称していたそう。
わかったことは、ふしぎがれず、そこで止まってしまうかもしれない。わからないことは、ふしぎに思い、もう一歩踏み込みたくなるかもしれない。
そもそも自分をにじませること、ふしぎがる姿勢、そして、その姿勢を場になじませる具体の工夫。こういったことを考えたくなったのが、今日の場を開いてみた学び。
あたたかなナマモノを書きなぐってみるものですね。思ってもなかった言葉たちが、自分から飛び出してきました。
なにはともあれ、参加いただいた方、ありがとうございました。またCC連絡会としての場も開くので、ご興味あればぜひ覗いてみてくださいね。