応答する関係のなかで、その人が滲んでくる。いい感じの場研究会『言葉を失ったあとで』の振り返り

いい感じの場研究会

先日8月25日に開いた、『言葉を失ったあとで』を手がかりにした「いい感じの場研究会」の振り返りです。会のなかの言葉や、それを見つめ直して浮かんでくるものを綴ります。

カウンセラーの信田さよ子さん、沖縄で若い女性の調査を進める上間陽子さんの対談本、『言葉を失ったあとで』を読んだのは2回目。

1,2年前に読んだときは、正直、心を上滑りしていた記憶がある。そんな本に再度向きあったとき、僕自身がどう感じるのかにも興味があった。

会のなかで、他の方も「性被害など、この本で向き合っている事象が、いまの自分が関わっているものとあまりにも遠くて、真摯に受け止めようとすると頭と心がパンクしちゃう気がした」とおはなししていた。

1,2年前の僕も、似た感じだったかもしれない。うっすらぼんやり人と向き合いたいと思っていた僕は、この本に記されている「覚悟」のようなものの重さに耐えられなかった。だからこそ、潰されないように、少しズラして受け止めていたのだと思う。上滑りとは、体感覚的なものだ。

じゃあ今回はどうだったのか、というと、重さに潰されそうになるのは変わらない。その人の根幹をゆらがすような痛みに向き合うことは、いまの僕もできないと思う。

でも、この本とは向き合うことができた。それは、とろ火の活動を考えるなかで、そもそも「その人に向き合う」場面において、どの層で向き合うかに優劣はないのではないか、と捉えはじめていたからだろうか。

「あくつさんは、痛みに対するケア的な視点を持とうとしている、ってこと?」と問われて、それは少し違うかも、と答えた。

なにをケアと呼ぶのかはさまざまだけれど、ケアは決して痛みに対するものだけではない。こればもうひとつの研究会でもはなしていたことで、「誰か/なにかに応答することも、ひとつのケアの在り方なのではないか」と最近思っている。

前回読んだ、西村佳哲さんの『かかわり方の学び方』で、自殺防止活動をしている西原由記子さんは、「人間をどんな存在として見ていますか?」と問われたとき、こう答えている。

応答する関係。人はひとりでポツンといるのではなくて、何かと応答する、そんな存在として生きているのだと思います。

この応答は、まさしくケアであり、それこそが人と向き合うということなのだと思う。そして、今回の『言葉を失ったあとで』でおはなしされているふたりは、応答を重ねつづけている。

応答する関係。今回の本からは、その関係性を感じることができた。

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このような話をしていると、「応答する/されるって、優しさだけじゃないですよね。この本でもそうですけど、厳しさもある。人間として向き合ってもらうって、厳しいことなんだ」という話になった。

誰かのことをただやみくもに肯定するのは、その人の存在を軽んじていることだとも言えてしまう。身近な例だけれど、パートナー関係もそうで。相手の意見や発言に対して真摯に向き合ったら、そこに少なからず齟齬は生まれる。異なる人間と人間だから、生まれざるを得ない。

それをなかったことにするのは、人間と人間という前提を崩すことだ。

この「齟齬を見つめる」という態度に通ずるのは、本文に出てきた「言葉を禁ずる」というもの。

信田さんは、カウンセリングの際に言葉を禁ずるとのこと。具体的には、例えば「愛着障害」や「自己肯定感」など。「自己肯定感が低いから…」と言うと、自他ともになんとなくわかった気がしてしまうけれど、使い古された常套句に“その人”は宿らない。

だからこそ、信田さんは「別の言葉で言い換えられますか?」と問うのだろう。そこでひねり出す言葉には実感がこもるし、その言葉を待っている姿勢は、まさに応答関係への眼差しだと思う。

会のなかではないけれど、友人が「最近、生きづらいって言葉を使わないようにしている」と言っていたことを思い出した。生きづらい、と言うと、どことなく連帯できてしまう。別にそれ自体は悪くないが、その心地よさは個別の苦しみ、そしてその裏にある個別の思考を曇らせかねない。

借りものの言葉ではなく、その人の言葉がただよう場。そこは、いい感じの場なのではないか。

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本のなかに、「周辺の話を聞いていたら、性暴力がポッと出てくる」という描写があった。「本人たちも、『あれ、話しちゃった』みたいな反応」なことがあるらしい。

この「話しちゃった」は、どのように生まれるのだろう。

考えていると、「大切な話を出してもらおう、っていう場はなんだか気持ち悪い」という語りが生まれてきた。

こういうことを言うのが正解、って雰囲気はなんだか作為的でもあるのかも。作為的って、道具としてその人を見ているってことじゃないですか。それは人間としての向き合いじゃないですよね。

この語り、僕のなかに色濃く残っている。その人の言葉で語る、というのは危険なことでもある。鎧を脱ぎ、無防備な状態で他人に飛び込むようなもの。それを強いるのは、ある種の暴力にもなり得る。

だからこそ、「話しちゃった」という、大きななにかに引っ張り出されるような感覚に惹かれるのだと思う。

この「大きななにか」は、あくまでも場であって、人じゃない。誰かが誰かに作用して、その人の言葉は出てくるのではなく、誰かが場に作用しつづけることで、その人の言葉が出てくる可能性が生まれる。

畑に化学肥料を撒き、無理やり発芽させるような姿勢と、時間をかけて土を種にあった環境にし、発芽しやすい環境を整える姿勢。前者はコントロール志向が、後者は委ね志向がある。

だからこそ、語りが生まれなかったとき、前者の姿勢ではそれは失敗になり、後者ではフラットに捉えられる。

人に働きかけるのではなく、場に働きかける。「あ、だからコーヒーがある場にしたいのかも」とひとりが気づく。そうか、僕もだから本のある空間に惹かれるのか。

この「話しちゃった」という感覚、いい感じの場に太くつながっている気がする。

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そんな予感で終わった、今回の研究会。この予感を考えていくため、次の手がかり本を『思いがけず利他』という本にした。

9月17日の20時から、オンラインにて次回の研究会を開くので、よければご参加ください。