
本記事は、死や生についての個人の語りを記録した文章です。一部、心が重くなるシーンが記される場合もあります。どうか無理なさらず、触れられそうなときに触れていただけたら幸いです。
また、あくまでも個々人の感覚を記したもので、一般的な思考を表したものではございません。また、プライバシーの観点から、内容を一部変更している場合もあります。
生と死という途方もないものを語った、たったひとりのことばとして、受け取ってください。
「死や生のはなしを聞かせてください」ってお誘いをもらって浮かんだのは、ワクワクでしたね。なんだろう。普段あんまり扱わない、ど真ん中に扱わないテーマを人と会話するっていうことは、僕にとってはワクワクで。
うん、あんまりしてきてないかな。あ、でもポッと思い出したのが、先月かな、両親の誕生日祝いで、僕と両親2人でご飯食べに行って。その会の終盤に、これは言おうと決めてたんだと思うんですけど、自分たちのお墓のはなしをはじめて。お墓はいらないよって。樹木葬でいい、樹木葬にしてくれって言われたんですよ。樹の下にしてくれって。
土の中には他の人たちもいる。そうするとさみしくないし、いろんな人がその樹を訪ねてきてくれるし。僕らの家族とか弟家族とかが来たときに、ピクニックとかもできるから。お墓だとすぐ帰らなきゃいけない。そそくさと帰らなきゃいけないけど、樹の下でゆっくり過ごせるし。樹木葬にしてくれって、ふいに言われた。
うちの家族は意外とそういうはなしも大っぴらにしてるかなぁ。ふと思い出した。けど、友達とはなかなかしないし、普段ね、夫婦でもあんまり話すことないなって感覚。でも、その親のやつをパッと思い出しちゃいました。
こういうはなし、ちょこちょこありましたね。延命はいらないよ、とか。そういうのがあったな。でもあんまり、哲学的って言うと変ですけど、そういうはなしにはならないですね。どっちかっていうとより具体的に、多分子どもに迷惑をかけない親の気遣いみたいな話題が多いですね。ある種、処理。その後の処理とか死にまつわる処置みたいな、オペレーション的なはなしが多いから、それ以上死のはなしにはならない。
死や生について、自分のなかにあったもの、かぁ。そうだよなぁ、うーん。でも、子どものときはやっぱあった気がするんだよなぁ。シャープには覚えてないですけど。ぼんやりあったかもな、そういうこと考えてた時期。中学生のときとか、ちょっと辛かった時期があったから。学校行くのが嫌だとか、人間関係で悩んでるとか。そういう時期はぼんやり考えてたことあったかもって、いまふと思い出しました。なんか急に。
例えば、自分が死んだら親悲しむよなぁ、みたいなことをぼんやり思うとか。子どもながらに思うことは、なんかあったかもなぁ。
でも、死についてはあんまり怖さはなかったですね。いまもそんなに、めちゃくちゃ怖いものっていう感覚もあんまなくて。子どものときからそうかもしんないですね。うーん、なんだろう。どっちかっていうと、そういうすごく思い悩んでるときっていうのはむしろ、救われるかなっていうか、楽になれるかなみたいな感覚にもなるので。怖いっていうよりは、そういう選択肢も自分に残されてるっていう、自由みたいなニュアンスだったかもしれない。
うん。でもその自由を取ると親は悲しむのかな、って感覚があったかもしんないですね。そんな感覚かなぁ。とても恐ろしいもの、みたいな存在には見えてなかったですね。
一番最初に死に触れたのは、友人のお父さんだったかな。お葬式に行った日のことはいまでもシーンに覚えてる。それが小学生くらい。親について行った記憶。その次は高校生に祖父、大学生くらいになって立てつづけに残り3人の祖父母みんなが。
で、一緒に暮らしてたワンちゃん。このワンちゃんは僕最後実家に行って、夜一緒に寝ようと思って、一緒に寝て、朝見送りました。息を引き取る瞬間も見て。大きいところで触れているのはそんな感じですね。
最初の友達のお父さんは、本当にシーンを覚えてるだけで感覚が残ってないけど。僕もちっちゃくて。祖父母のときは、うーん、なんて言うんだろうな。なんかうまく言えないけど、泣かなかった。泣けなかった。
泣けるものなのかなって思ってたんですよ。泣かない自分をある種ドライにも思っちゃった、当時は。泣かない自分がおかしいのかな、みたいな。涙が出てこない自分っておかしいのかなって。でもなんか、すごくあっけなくて。あっという間に火葬場に行って、灰になって。その一連のプロセスがあまりにスピーディーで、あっという間に骨になって。すごく晴れた日だった。終わったらみんなお酒飲んでご飯食べるじゃないですか。それがなんか、いま思えば大人たちもいろいろ抱えてるんだろうけど、なんかすごくあっけなく見えて。
なんだろう、僕は空っぽで、本来感じるべきものを感じない人間なのかなって思った感覚は残ってます。
ワンちゃんのときは少し状況が違ってましたね。もう老衰だったんで、ある程度予期してた。親からももう限界かもしれないって連絡があって。ある程度心づもりはしてたのは、祖父母のときと似てたんですけど、ちょっと違うのは、やっぱりその瞬間を見たっていうことですね。息を引き取るっていう瞬間を、自分が見たっていう。これは忘れられないですね。
家のリビングで、朝の5時とかだったかな、スーってこう、スーって息を吐いて、その間隔が長くなってくるんですよ、間が。スーってして、まだ生きてるまだ生きてるって思いながら。でもそのスーっが最後聞こえなくなるんですよね。そしたら、そこにはなんか、なんだろう。不思議な感覚だよな。物体としてはいるじゃないですか、さっきまでと変わらず。いるけどいないっていう感覚が不思議でたまらなかった、っていうのはなんか覚えてるな。
そのときも自分を空っぽって思ったのかな。なにを感じたんだろう。でも、その瞬間かわかんないけど、涙は出たと思う。
うーん。でも話してて思ったんですけど、死ってものと、悲しいっていう感情は、よく一緒に語られるじゃないですか。死って悲しいものだから涙が出ます、みたいな。僕はこれが薄いかもしれないです。ここの繋がりが。「=」になってないかも、あんまり、自分の中で。だから、「ワンちゃんがなくなった=悲しい」かって言うと。涙が出たときも、どっちかっていうと感謝の気持ちが溢れたし、また会おうねっていう気持ちになったし。
「死=悲しい」が薄い、人より薄いかもなってぼんやり思いながら生きてるかもしれないですね。これはずっと疑問なんですよ、自分の中で。
とんでもなくさみしいから悲しい、っていう悲しさは瞬時にあると思うんですよ。例えば、妻と明日お別れになりました、って考えると、その瞬間の悲しみみたいなものは、多分とんでもないものがあるんだろうなって想像はできるんだけど。それは、なんていうんだろうなぁ、うーん。それはでも、「死=悲しい」とはまた違う感じがするんだよな。
なにに泣くんでしょうね、あのとき。なにに涙してるんだろう。なんか、死に涙してない気がする。死に涙しない。また会えないことに泣いてたりするのか、過ごしてきた時間という重さに泣いてるのか。出会えた嬉しさで泣いてるのか、よくわかんないですけど。死に泣いてるのかなぁ。なにに涙するんだろう。
僕がもし大切な人と死に別れたとき、僕は泣くでしょうと。 例えば、妻ってことを想像したらとても悲しい、とても泣くと思う。でも、それはなにに泣くんだろう。そう思った。
瞬時の悲しみのあとに来るもの。そうですね。うーん、そうだよな。最後はなんか、さみしさが残る気がする。さみしさが残るのかな、自分の中に。
僕の中では悲しみとは違っていますね。さみしさは前提としてあるもの、みたいな感覚なんですよ。自分の中に、生まれたときから死ぬまで。さみしさっていうのは自分の存在と人生に、根底に流れつづけているみたいな感覚があって。悲しみっていうのはすごく瞬間的に、パルスみたいに現れてる。出来事によって生まれる強い感情みたいな。なんとなくそんな感じ。
でもこれは人によって違うかもしれないですよね。悲しみってものが生まれたときから死ぬまで自分のそばにあるんだ、みたいな感覚がある人もいるし。人によって違うんだろうなと思いつつ。
そのさみしさって、なんかこう、なんていうんだろうな、ひとりにかえっていく。またひとりにかえるっていう感覚。出会う前にかえるとか、そんな感じが出てきました。ワンちゃんと別れて、出会う前にかえっていく感覚。
またその先で会えると思っちゃってるんですけどね。どっかで。自分が死んで。その感覚はある。なんか、別の形でそばにいる感覚になるときもあるんですよ。未だに。散歩してたりとかしたら、犬の存在を感じるときがあるんです。たまに。光の感じとかで。不思議なんですけど。
でも、やっぱり、この現世でもう会えないっていうさみしさはある。だから、なんか、それにかえっていく感じ。それは強い感情じゃないですよ。じんわり。悪いものでもないです。
僕の中で、落ち着く気持ちさえある。さみしいって、なんか落ち着きをくれるものでもあるって感覚。うん、さみしいって気持ちは、年々大事になってきましたね、自分の中で。妻と別れたとしても、そうだろうなって想像はしますね。
人のはなしを聞く活動をはじめてから、自分の原動力ってさみしさだなって、あるとき気づいて。無限にさみしいから人と関わろうとするんだなって、人と出会おうとするんだろうなって思ったんですよね。人と話したいし、出会いたいし、関わってみたいしとか、なにかを一緒に熱中してみたいしとかって、さみしさがくれてるなと思って。全部さみしさがくれているものだなって感覚になったんですよね。活動をはじめて、ふと、はたと気づいたっていうか。
これ、僕がさみしくなかったら、こんな風に人に会いに行かないなみたいな。そう思ったら急に許せましたね。さみしい自分を消そうとしてましたけど。
うん、消そうとしてました。さみしいって、孤独な人間で。孤独になりたくないとか、さみしいってない方がいいよな、満たされたいなみたいな感覚も、20代のときはあった気がします。周りがハッピーに見えて、僕はさみしいってなってると。満たしたい。コップに水を満たしたいみたいな感覚があった気がするんですけど、最近は感謝してる。感謝っていうか、うん、こいつありきだなみたいな感覚がすごいありますね。
だから、さみしさを満たすために会いに行ってるわけじゃない。さみしい人間として会いに行ってるっていう感じ。なんていうんだろう。そのさみしいのマイナスをプラスにしたくて人に会うわけじゃないっていうか。うん、これは変わらなくていいし、変わらないものだと思ってるかもしれないです。人に会ったからって。これをどうこうしたい気持ちはなくて、これがくれる出来事を味わいたいみたいな。こいつが連れてってくれる場所を味わいたいみたいな感じかもしんないですね。
なんかあんまり言葉にしてなかったけど、言葉にしてみて、あぁって思ってます。そうか。
さみしさはずっとあります。多分、弟が生まれたときからあるんじゃないかな。いま思えばですけどね。自覚はなかったです。なんていうんだろうな。ひとりっ子だったときって、やっぱり独り占めしてたじゃないですか、親の関心も周りも。弟が生まれると、なんか遠巻きに弟を見てる映像が記憶にあるんです。親は弟にかまっていて。しょうがないですよね。だからなにも悪くないですよ。
それを親に気遣わせないように遠巻きに見てるとか、本当は自分も構ってほしいけどそれが言えない感覚とか。性格的に弟が愛される系のキャラだったんで、親戚の家とか行ってもちやほやされるのは弟で。うん。僕はどっちかっていうと目立たないお兄ちゃんっていう立ち位置でずっと生きてきて。その辺りから生まれたものは1個大きい気がしますね。そのままいても人に愛される人間ではないかもしれない、って感覚が昔は強かったんで。そういうものが根っこにある。それを埋めようとしてましたね。
でも、それがあるから出会えるものがあるっていう。うん、付き合い方が変わったって感じですね。なんか、死のはなしとも繋がってきそうな感じがしました。なんでだろう。いや、なんか繋がってきそうな気がすんだけどな。
おじいちゃんの時も泣けなかったってはなしとか、死=悲しいって感覚が薄いっていうはなしと繋がりそうな気がして。谷川俊太郎さんの「孤独は前提だよね」って言葉が好きなんですけど、僕はそれをさみしさと言い換えて、自分の中にしまってある感じで。人はみんなさみしいと、孤独であると。そういう存在として生まれてきて、死んでいくみたいな。
なんか、そうなったときの死って、なんていうんだろうな、ネガティブに捉えてない部分があるんだろうな、やっぱり。救いとか、赦しとか。
お疲れって言いたくなるんですよね。お疲れさまでしたって。なんだろう、うまく言えないな。これも伝わり方によっては誰かを傷つけてしまうから、本当にストレートにはあんまり表で言えないはなし。いまこの瞬間、悲しんでる人は絶対いるし。それを全く否定したくもないし。
なんなんだろうね、この話題。だから、あんまりいままでそんな大きい声で言わずに過ごしてきてる感じがします。こういうことあんま言えない感じ。
たしかに、なにを赦されているんでしょうね。なんなんだろう。
パッと浮かんじゃって、でもビッグワードすぎるから手に負えないなって思ったのは、存在。存在から赦される。存在しちゃったっていうものとしての存在が持ったさみしさ。要は、存在そのものがもう孕んでいるさみしさとか孤独。
自分がなぜ存在してるかもわからないまま存在する、存在しつづけなければいけないっていう、この存在っていうものからある種赦されて、存在しなくていいっていう世界に入っていくことなのかもなって。
パッと思ったけど、ちょっとビッグワードすぎるな、手に負えないなっていう両方の自分がいました。でも直感的にはそんな感覚だな。うん、そんな感じ。
存在お疲れさまでしたって言いたくなるのと繋がってるのかな。お勤めお疲れさまでした、みたいな。存在って大変だったね、って。よく存在したね、勝手に存在させられたよねって。存在しつづけることを強要されてたとも言えるよね。お疲れさまでしたって。
存在しないっていう選択肢が取れない。そういう、仲間感があるんですよね。やっぱり存在してるもの同士、人間同士もそうだし。根っこのところで同じというか。猫とか見ててもめっちゃ思う。お前も存在しとるやん。お前はお前のさみしさがあんのかい、みたいな感じっていうか。すごいそれは感じる。存在、大変だね。まぁ悪いばかりじゃないよね。まぁまぁまぁ、みたいな。なんか結論のない慰めになっちゃうんだけど、それは流れてるな。
うん、存在しちゃったって感覚はちょっとあります。でも、ネガティブじゃないんですよね。偶然しちゃったねっていう感じ。僕らは存在するっていう方に来ちゃったねって。パチンコ玉が両方あって、どっちも行けるんだけど、こっち行っちゃったねって。僕らは偶然って。こっちの旅をする存在としているねって。なんか、ダーツの旅みたいな感じかもしれない。あ、佐賀県来ちゃったね、僕ら、佐賀県来ちゃったねって。それは佐賀を否定したいわけじゃない。
そう考えると、ちょっと喜劇になるっていうか。ちょっとコメディチックになるのが面白いなって思うたちかもしれないです、僕は。
存在しないことを選ぶこと、か。存在しているのも偶然ですもんね。
いまきかれて考えている感覚ですけど、なんか良くないことって言われるじゃないですか。その、自死を選ぶこととか。論調的にとか、あるいはすごく悲しい選択をしてしまったとか、そういう悲劇の人生とかって言われたりとか。
めちゃくちゃぶっちゃけ言うと、なんか腹落ちしてないかもしれないです。僕はそれに、なんかピンときてない。
うん、いや、当然自分の身近な人がそれを選んだときに、悲しいとはなりますよ、きっと。でも、すごく自分の本音で近いところで言うと、それを選ぶ自由が存在にあってもいいでしょって思っちゃってるかもしれない。
存在しちゃった存在として、存在しないを選ぶ自由がその存在にあることが、なぜいけないかがわかんないかもしれないです。
それを良くないっていう人がいたときに、なにが良くないのかちょっと理解したいから聞きたい、ってなるかもしれない。なにが良くないですかって。いまいち腹落ちしないかもしれないです。
別に肯定したくて、どんどんみんなそうしようとは言ってるわけじゃなく。それを選んだ人に対して、それが良くないことをしたとか、自分は思わないかな。
身近な人が本当にそれをやろうとしたときには止めると思いますよ。進めたいわけじゃないし。うん、全力で止める気がするんですけど。じゃあ、それが矛盾してるかっていうと、よくわかんない。確かに矛盾してるって言われたら矛盾してるのかもしれないし。わかんないな。否定するほどの材料がないから、その行為を。別に肯定するわけでもないんだけど、その自由はあるかなと思うっていうのが、自分のいまの感覚。
でも、存在しつづけようっていうものが僕の中にあるかっていうと、あんま意識されないかもしれない。存在しつづけよう、明日も頑張って生きようって、長生きしようって。僕、全然長生きに興味なくて。80年生きようとか全然。
あるとしたら、存在ってものそのものの中に内在されてる、存在しつづけようとする意思みたいなもの。それは僕じゃないかも。僕じゃなく、この存在。うまく言えないけど、自意識の僕はそういうことを考えてないかもしんない。
存在っていう、この謎があるじゃないですか。巨大な謎がここにあるじゃないですか。こいつにそもそも内在している、存在という存在の中に存在している、存在しつづけようとするなにかしらがあるのかな、みたいな。もう僕には預かり知らないところの力、みたいな感覚がありますね。僕は思ってないな、みたいな。執着が薄いんだろうな。
「生きる意味は?」ってきかれたら、生きる意味ないです、って言うかもしんない。うん。意味がないのに生きられるっていう存在そのものに、僕はすごく拍手を送りたい感覚があるんですよね。意味がないと生きられないと思いたくなるのって、意識の僕じゃないですか。自意識の僕な気がするんですよ。意味がないのに耐えられないのって。
でも、存在って別に意味がなくても耐えられるじゃないですか。石とか草とか見てても。いや、意味あるんですけど、彼らに。意味はあるのかもしれないけど、存在はその程度じゃブレない圧倒的な存在感な気がしてて。意味があろうがなかろうが存在できるっていうこと。僕はリスペクトします。
でも、僕は例えば、会社の中で自分がいる意味を感じられないと、その会社にいたくなくなる。俺、役に立ててないな、居づらいな、みたいな。そういう自分はいますけど、なんかもっとおっきいものが生きようとしてるから、意味がなくても、存在は明日も存在するしな、みたいな。なんかそんな感覚ありますね。
だから、こいつについてった方がいいんかなって感覚があります。意味があろうがなかろうが、存在できるこの存在の力の方に、僕はついてきたい感じがするんだよなぁ。すごい抽象的なこと言ってますけど、なんかそんな感じで生きてるかもしれないです。だから、生きる意味はないなって。
さみしさは存在そのものか、自意識かどっちに宿っているか、ですか。うわ、たしかにな。え、どっちだと思います?
なんか、僕はやっぱり、ちょっとやそっとではブレないっていう、根底に常に流れつづけてるっていう意味合いにおいては、もうそのものに、存在そのものに宿ってるのかなって思えちゃうかな。
意識はもっとこう、揺れ動くから。意味を感じる日もあれば、俺には意味がないって思う日もあるじゃないですか。こういう揺れがあるものが意識。もっと下にどっしり、海流みたいに流れてるものがさみしさだから、やっぱ存在側のものなのかなって。
うん。存在したら、他者の存在との距離を感じなきゃいけないじゃないですか。この僕という存在があると、他者っていう存在と一緒ではないこととか、一緒にはなれないこととか、離れてるってこととか、別であるってこととかが、もうこの存在っていうものがある時点で、構造的に決まっちゃうっていうさみしさが、内在されてる感じがしていて。存在しなければそんなものも感じなかったかもしれないし。
うーん。だから、存在が存在した瞬間から、もうそのさみしさってものは内在されてる感覚が、なんとなく僕の中にあるかもしれない。
でも、存在の重さも感じるんですよね。どうしても、感じざるを得ない。例えば、猫を触ってる手触り。ここに猫がいるってことを否定するって、とても難しいなって感覚もあるし。でも同時に、この宇宙すら本当に存在してるのかとか、なにを足場に存在してるのかもよくわからない曖昧さもあるわけで。もう、全てがひっくり返るぐらいのことがあるわけで。それも、なんか、そうかもなと思うっていう、ほんとに、謎。ほんとに謎です。
あぁ、そうですね。「不思議」はテーマにしているかもしれません。
こういう、存在の不思議みたいなはなしは、久しくしてないというか、すごく久しぶりにさせてもらった感覚があって、めちゃくちゃ楽しくて。普段はもうちょっと、人生で起きた偶然の不思議みたいなはなしになることが多い。巡り合わせとか、ご縁とか、不思議なことって起こるじゃないですか。人生の出来事ベースの不思議さを味わうことが日頃は多くて。人のはなしをきかせてもらいながら、僕は勝手に味わってたりもするし、そういう偶然の不思議みたいなことを味わうことが多いかな。
うん。存在の不思議も偶然の不思議と近いから、本来は同じ、似てる延長線のはなしなんだと思うんですけど。存在したっていうことも、出来事として。自分のパチンコ玉がそっちに入ったっていう出来事。
そこまで思いを馳せちゃえば、存在の不思議さを味わうことなのかな。日頃それができたらいいんだけど、なかなかね。だから、本当にありがたい時間な感じがします。
うん。不思議は大事にしたい。なんでだろう。
20代で旅をしていたとき、ゲストハウスで一緒になった80歳くらいのキムさんから教わったんですよね。キムさんはもうずっと旅してる人で。で、僕は22歳ぐらいの若造で。「旅してたら、本当、人生って不思議だなって思うんですよね」って、すごい浅い感じで言ったんですよ。「あそこの街で出会った旅人と、またこの街で出会ったりするんですよ」って。そのレベルで。
そしたら、キムさんが「そうだね」って。「でも生きてると、もっと胸の深いとこで、その不思議を感じるようになるよ」って言ったんですよ。僕はそれをずっと覚えてて。お守りみたいな。
この胸の深いところで感じる不思議ってなんだろうって。結構それが道しるべになってるっていうか。うん。そっから不思議への好奇心はずっと持ってますね。
その究極が、やっぱ、存在に対する不思議とか、生きるとか死とかの不思議っていうところ。根底にあるだろうなって感覚。そのものが不思議じゃないですか、存在が。これを味わうってことなのかな。
そんな感覚あるかもな。ちょっと貧乏性なとこかもしれないです。存在したからにはセンス・オブ・ワンダーっていうか、この存在のセンス・オブ・ワンダーを味わうっていうボーナスがあるでしょって。
僕はそういう感じで考えるかもしれない。うん、考えてる。それを味わう。存在として。ただわからないまま震えて味わう。わかりたいとも思ってないですよね。この謎を解きたいとかじゃなく。
本当に、センス・オブ・ワンダーだと思う。この謎に触れて震えるみたいな。そういう感じはあるな。せっかく存在したなら、みたいな感覚あるんだろうな。
不思議さを味わうって、なんなんだろう。
より抽象的になるんですけど、あれが浮かびました。「!」と「?」。なにかに驚くっていうものと、知りたいって思う感じなのかな。なにかに驚く、不思議がる。触れてみて、また驚く、みたいな。なんか、うん、そんな感じかな。いや、不思議さを味わうってなんなんだろう。
あぁ、さみしさとは違うかな。いや、でも根っこが一緒な感覚はあるかも。
うーん、いま言われて思ったんですけど、またちょっと抽象的なはなしになっちゃいますが、その、存在した瞬間から前提としてさみしいがある、ってはなしあったじゃないですか。
僕、存在したってことは、もう1個前提で生まれるものがあるなと思って。それが出会うってこと。存在しないと出会えないじゃないですか。存在したら出会う。なんていうんだろうな。存在ってものの中に埋め込まれた1つがさみしさであり、もう1つが出会うってことであり。その出会うってことそのものが、やっぱ不思議だと思ってるんですよね。
「!」と「?」って、やっぱ僕、出会いからしか生まれないと思ってる。人と人の出会いじゃなくてもいい。なにかとなにかの邂逅っていうか。そこに不思議さがある。そう思っているので、不思議さとさみしさっていうのは、結局やっぱり存在ってものに最初から内在している。光の当て方が違うだけなのかもしんない。
なんだろう。なんていうんだろう。うん、同じ根っこから生えてますね、みたいな感覚。いや、なんていうんだろうな。すいません、めちゃくちゃ説明が下手だよね。うん、なんだろう。
スペシャルサンクス存在、って感じ。だから一緒、一緒なんです。さみしさも不思議さも。CDの最後に書いてあるスペシャルサンクスのとこに書くとしたら、それは、やっぱり存在。
出会えるって時点で別個ってことなんで、さみしいんですよ。やっぱりさみしさなんですよ。これはすごく。やっぱり光の当て方ですよね。孤独の存在ってことですもん、要は。じゃないと出会えないし、じゃないとさみしくもなれない。だから、似てるかも。
でも、不思議さを感じたとき、さみしさはそこにあんまりないかもな。でも、味わいきれてないだけかもしんない。僕の日常の脳みそのモードでは。例えば、妻と出会えたこと。ある1日に出会うじゃないですか。ある日。そこで出会ったことを本当に感じようと思ったら、結構不思議じゃないですか。そこにものすごい驚きがある気がするんですよ。本当に味わおうと思ったら、あそこのあの場所であの日出会えたって、「!」と「?」しかない気がして。
で、さらにそれをもっと味わっていったら、さみしさまで行くかもしんないです。もしかしたら。出会えたことと、だからまた別れが来ることとか。出会えた喜びを感じてる自分を味わい切っていくと、結局それはひとりの自分にまたかえってくから。ひとりの自分を味わうことになりそうだから。結局ひとりぼっちの自分を味わって、さみしさを味わえるかもしれないです。
だから、ただ味わえてないだけな気がしました。日常の僕がパーって生きてるから、わーって。うん、そんな気がする。いまきかれて、不思議さを味わいきるとひとりってことを感じる気がする。うん、そこに出ちゃう気がするな。だからさみしくなれると思う、味わえば。
結局、存在してなにを感じていたいんだろう。やっぱり、センス・オブ・ワンダーに立ち返るかな。ワンダーは驚きとも言えるかもしれないけど、「!」と「?」だとして、そのプリミティブな感じ。僕はそれを感じたいですね。ずっとそれは思ってたんですよ。なんとなく。さっき言ったキムさんに出会ったときから。
でもなんか、今日喋ってても、それこそが存在しちゃった存在としてのお楽しみなのかもな、って思えてきましたよ。うん、今日それ思ったな。存在しちゃったからには、みたいな感覚と、存在しちゃったよね、お疲れ様、みたいな感覚と、どっちもあんだな。
なんかいま、ふわーって考えてたら、またうわーーって。得も言われぬ感覚になるところに入っていきそうになって。なんか言葉にならない感覚で、あーってなるやつ、うーってなるやつ。いま一瞬、ぞーってなったよ。
存在ってたしかに危ういというか、なにも証明するものがないじゃないですか。この宇宙が存在してることを証明することもできないっていうかな。そう思うと、こういうちっぽけな人間からしたときに、その存在ってものがすごくはかなくも見える。はかなくっていうか、なんだろうな、陽炎のようにも見えるし。でも、実体してるように見えるし。っていう両方があるってのが、今日喋ってて、本当そうだなって。
とはいえ、存在の存在感っていうか。猫の温かみもそうだし、人とハグした時のこの感じとか、なんか小指足にぶつけてとんでもなく痛いとか、この存在の存在感はなんなんだろう。圧倒的に存在してるぞ、と僕は思うぞっていうこの感覚。
こっちの力ってとんでもないものがあるのかもなって、今日喋ってて改めて思った。それはなんていうんだろう。そいつは意味なんて気にしないで存在できるみたいな。自分で言いながら、存在ってマジですげえ。リスペクトって思ったんですけど。
そういうとんでもなくおっきい存在の存在感ってものに対して、もうちょっと自分が味わいに行けると。味わうっていうのかな。その力が自分の人生の方に染み出してこないかな、みたいな。
なんていうんだろう。もっとちっちゃいことで、毎日不安がったり、面白がったり、怖がったりしてるんだけど、それこそ意味を探したりしてんだけど、この存在は存在感を出して存在してるわけで。なんかそいつと、もっとうまく関われるようになれたら楽しいんだろうなって感覚が今日は、うん、すごく残ったかな。うん、すごい面白かった。
なんか飛び飛びの感想なんですけど。そんなことが頭の中にこう、ポツポツ。
宇宙っていうスケールから見たときの自分たちのちっぽけさってあるじゃないですか。でも、この大きさで測ろうとしてること自体も人間なのかもなって思いました。
なんていうんだろう。実は存在同士はお互いをフェアだと思ってるかもしれない。宇宙の存在も、1匹の虫の存在も、存在するってことにおいては、もしかしたら存在同士はお互いをフェアに見てるかもしんない。人間はどうしてもこのスケールで、こんなちっぽけな自分がこの宇宙を語って良いのかって思っちゃうんだけど、それは人間の見方なのかもしれないなって思った。僕もそう見てたけど。
存在同士は別に上下で見てないかもしんないっていうか、手を取り合って語り合えるんじゃないかな。だって存在してるんだもん、資格はあるでしょ、みたいな。そこでは繋がれるんじゃないかなって。フェアに。
そんなこと思ったな。めちゃくちゃ存在について考えてるネズミがいたとして、なんか手を取り合える気がするじゃないですか。お前は俺よりも100分の1のサイズなんだから、そんなこと考える資格はねえなんて言わないじゃないですか。宇宙も同じこと言ってくんのかな。存在しちゃったってことにおいては同じだから、バンバン語っていいんじゃないかなとちょっと思いました。
【なぜ在るのか–死生観をたずね歩く–】
みなさんの“死生観”を聞かせてもらい、書き残していく活動です。文章は、すべて匿名で公開予定。
死生観と言われると身構えてしまうかもしれませんが、おはなししながら浮かんできたものを見つめていくので、形となっている思考がなくても大丈夫です。
「子どものころ、“死”についてどう思っていましたか?」などの投げかけからはじめます。
糸の端っこから、少しずつ、少しずつたどっていけたら嬉しいです。
もしおはなしを聞かせてくださる方がいらっしゃったら、下記のフォームからご連絡いただけますと幸いです。
https://forms.gle/TBRW868R2ar9YkpGA
