
この記事は、12/22に開催した「死や生におろおろする読書会 『コンパッション都市』 第4回」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
ついに最終回。今回の記録は、最終回で読んだ章に限らず、全体も通して感じたこと、考えたことを書いてみようと思う。
読み終えたあとに本書を振り返って思い出すのは、“喪失”の体験をさまざまに広く捉えようとしていることだった。エンドオブライフケアの文脈も多いので、いわゆる“死”にまつわるものに言及している箇所が目立つのだけれど、ときおり視野がぐっと広がる。
大切なのは、この日が終わりと喪失の経験の多様性を体現する機会となることだ。妊娠中に胎児を亡くした女性たちが、土地を追われ暴力的圧政によって伝統や祖先を奪われたことを嘆く原住民族の隣を歩くことになるかもしれない。
p256
ここでは、胎児を亡くしたという喪失と、伝統を奪われたという喪失が並び立っている。それはつまり、喪失という体験自体は、誰にでも開かれているものだということだろう。もちろん、深度のようなものはある。けれど、死が誰しもに来たるのと同じよう、喪失だって誰しもが経験する。
この事実は、気を抜くと見逃してしまうものではないだろうか。喪失という体験は、普遍的だ。
本書の議論の核は、「死や喪失が持つその普遍性によって、連帯が可能になる」ということだと、僕は捉えている。
わたしたちが、「他者」を具象化するとともに抽象化するパブリックヘルスの冷徹な視線に変化をもたらそうと真剣に試みるのは、自らの喪失と有限性[の経験]を通して、他者のうちに自身をみてとる場合だけである。他者のうちに自身を見ることによってのみ、わたしたちは、自己陶酔的で内向きの個人主義を脱却するというチャレンジに真剣に立ち向かう。
p288
死と喪失の経験は絶えずつきまとい、そのたびに他者が姿を現す。それとともにわたしたちは、互いに対して文化的な、スピリチュアルな、政治的な責任をもつことを思い起こす。
p288
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この議論の流れについて会のなかではなしていて、どうもしっくりこない感覚があった。理解はできるけれど、それだけじゃないだろうというモヤモヤ。
言葉を交わしながら浮かび上がってきたのは、本書が捉えようとしている連帯が、とても広いものだという点だ。上記の引用で「政治的な責任」と語っているよう、我々はみな同じ土俵に存在し、相互依存的であるからこそ、連帯できる、連帯していこう…というメッセージを受け取ってしまう。
けれど、「他者のうちに自身を見る」ことは、果たして連帯へと一本道に繋がりうるのだろうか。そこには飛躍があるような、なにかが見落とされているような気がしてしまう。
おそらく、僕自身のひっかかりは、「他者のうちに自身を見る」ことが「政治的な責任」へと繋がっていることだ。これは僕の特性上かもしれないけれど、それこそ他者へのコンパッションが、うまく社会的ななにかへと至らないという感覚がある。
たしかに、社会は相互依存的に成り立っている。けれど、どれだけ想像を膨らませたとしても、見ず知らずの人への視線と、身近な人への視線は異なってしまう。異なってしまうべきだとも思う。
こういったはなしをしていて、ふと思い出したのが荒井裕樹さんの『ままならない言葉を生きる』という本だった。手元に本がなく、読んだ当時のメモ書きから転写しているので、確実な引用ではないかもしれないが、下記のような文章を覚えている。
もし仮に、まったく異なる生活習慣や価値観を持った人から、突然「あなたの隣近所に住みたい」と言われたら、ぼくは、たぶん「ピクッ」とすると思う。
この「ピクッ」という感覚は何だろう?
「ピクッ」っとしてしまう自分って何だろう?
自分を「ピクッ」とさせるものは何だろう?
それが何かは、自分自身で考えなければならない。
荒井さんは、障害を持っている方の自己表現などを研究している方だ。その方が持つ、近くにきたまったく異なる人に対して「ピクッ」としてしまうだろう、という自覚。
『コンパッション都市』では、この感覚がほとんど見当たらない。たしかに死や喪失の普遍性によって、「他者のうちに自身を見る」ことは可能だろう。けれど、それと同時に、目の前の他者は圧倒的なまでに自分とは異なる存在でもある。
その異なりは、自身と他者の繋がりで覆い隠されるものではなく、ひたすらにそこに横たわっているものだ。誰かと関係性を築くうえでは、むしろ横たわっていないといけない。
こういった感覚を僕は抱いてることもあり、政治的な責任、連帯といった議論の出口にはつまずいてしまうのだと思う。だからこそ、前回の記録にも書いたように、僕は少人数のなかでの関係性を重要視しようとしているのだろう。
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綾屋紗月さんと熊谷晋一郎さんの書籍、『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』という本がある。障害を持っているふたりの著者が、他者や社会とのつながりを思考した本だ。
この本で印象的なのは、タイトルにあるよう、「同じでもないけど、違うでもない」というまなざしだ。例えば、似た苦しみを経験した人と出会うと、自分をわかってくれる人の出現に感動する。けれど次第に、その人と自分との差異が浮き彫りになってくる。衝突しながら、その違いをも含みこんで、ふたりはつながっていく。
この議論を重ね合わせて気付いたのは、『コンパッション都市』で片手落ちになっていると感じたのは、「同じでもない」という違いを含みこんでいくなかで生まれる衝突への視点なのではないか、ということだ。
荒井さんが書いていたような、「ピクッ」としてしまう自分に向き合おうとすることも、きっとひとつの衝突だ。
健全な衝突、健全に違いが浮き彫りになっていく場。どうしたってそこにありつづける異なりを、どう眼差していけばいいのだろう。
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これは生煮えな感覚だけれど、とろ火で行っている死生観の語りを記録する活動は、健全に違いが浮き彫りになる場になるのでは…と感じた。
死や生に関しては、誰も正解を持っていない。科学的に正しい、社会道徳的に正しいとされているものはあるかもしれないけれど、死や生に対する思考や眼差し、実感については、ひとりひとり異なるし、その異なりは埋めるべきものでもない。
実際に死生観の語りを聞かせてもらうと、共感できる部分もあれば、全然わからない部分もある。それが面白い。なにも正しさがない土俵で、それぞれの語りを聞いて、一緒におろおろしている時間が、本当に面白い。
またしっかりと考えたいけれど。『コンパッション都市』を読んだからこそ、死生観をたずね歩く活動で感じたいことに、少し触れた気がする。
この活動をつづけたあとに、本書を読み直すと、また違う見え方をしてくるのだろう。より健全に違いを感じられる自分になってから、また読んでみたい。
