
本記事は、4/22に開催した「おろおろする死生学読書会 『誕生のインファンティア』第一回」を経て、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
次回は5/6の20時から。下記のイベントページをご覧ください。
https://orooroshiseigaku.connpass.com/event/353389/
今回読んだのは、「プロローグ:誕生の不思議」と「Ⅰ:死の不思議から誕生の不思議へ」の約50ページ。この章立てからわかるよう、本書が主に眼差しているのは、「誕生」についてである。
ところで、「死んだ後」は気になったのに、「生まれてくる前」は考えたことがなかった。それどころか「生まれてくる前のことを考えたことがない」と気がついたのは、ずいぶん大人になってからのことである。なぜ人生の「始まり」については関心がなかったのか。どうやら子どもの頃の私には、「人生の始まり」は、始まりがあったということすら気がつかないほど、まったく霧に包まれていたのである。
p4
なぜ始まりを、誕生を問えないのか。
死は、いま存在しているものたちが、誰しもがその身では経験していないもの。一方、誕生は、いま存在しているものたちが、誰しもがその身で“経験した”こと。得体が知れないのに、この身が遠てきたという事実によって、死よりも扱いづらくなっているのだろうか。
この人生は、なんで始まったのだろう。自分にも、お子にも強く思う。物理的なことでいうと、両親が、僕と妻が出会ったからなのだけれど、それは「僕が僕である理由」でもないし、「お子がお子である理由」にはなり得ない。
なぜ、いま、ここで、この命が誕生したのか。そこに意味を見出したいのかすらわからないけれど、たしかに在る以上、生まれてきた不思議が横たわっている。
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読書会では、僕を含めて、自身の子どもと触れるなかで感じることが話題にあがった。とある人は、子どもを生きる日々は、人生を生き直している感覚になると話していた。そして、そのなかに自らの子ども時代が浮かび上がり、大きな流れのなかで生きていることを感じることがある、と。
大きな流れ。多くの本で、ひらがなの「いのち」で描かれるもの。その人は、自分が流れに位置づけられることで、荷が下りる感覚があるらしい。個としてなにかを成し遂げなくていい、という安心感。
一方、この本が問うている「誕生」はちっぽけだけれど、たしかな“個”を眼差しているように思える。連綿とつづいている「いのち」に連なるものではありつつ、たしかな「命」でもあるという事実。
途方もないものを眺めると、個が溶け出し、安心感を覚えることがある。けれど、それだけではなく、ちっぽけながらたしかに存在する“個”も見ていないと、大切なものを見失う気がする。
大きなものと、ちっぽけさとの往復。その話題のなかで、手塚治虫の『火の鳥』のはなしになる。この作品は、とんでもないスケールの世界を描きつつも、悲哀や業に満ちた個人の人生も映し出している。その往還のなかにこそ、浮かび上がってくるものがあるのではないか。
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読書会の後半の話題は、「死と生の不条理さ」へと移る。
私が存在するとは、他の何かを「存在させないこと」である。別の何かを「存在させない(出現させない、抑圧・抹消・殺害する)」ことと引き換えに初めて自分がここに存在した。他の者がここにありえたかもしれない可能性を踏み潰して初めて、自分がここに存在する。
p41
僕たちはおそらく、生まれることを選んだわけではない。気がついたら生まれていた。そして、大抵の場合はいつ死ぬかも選べない(その観点で、自殺という選択がどう論じられているのかは気になるが)。
圧倒的なまでにコントロール不可なもの。不条理なもの。この不条理さを前にして、僕たちはどうしたらいいのだろう。
それを話すなかで、参加者のひとりが姨捨山について教えてくれた。岩手県の遠野氏にある「デンデラ野」という場所は、姨捨山の伝説の地として知られているとのこと。この地では、老齢になると自らデンデラ野に足を運び、寒空の下、死を待つという風習があったらしい。
これは残酷で辛い伝説ではありつつも、「死への向き合い方が社会制度としてあるっていうのは、ある意味で救われる気がする。ひとりで向き合わないといけないって考えると、わたしは怖い」とはなしてくれた。
もちろん、画一的に死へ向かわせる制度が正義、と言いたいわけではないが、生と死という途方もない不条理さに対して、たったひとりのちっぽけな存在で向き合うことには無理がある。
本書で、デス・エデュケーションについて触れていた箇所があった。この読書会もそうだけれど、答えが出ることのない不条理な生と死について考えるのは、なぜなのだろうか。本書にはこう書いてある。
デス・エデュケーションは困難を極める。しかしおそらくその要点は「手際よく済ませる」ことではなくて、むしろ「自らを問題の深みに巻き込ませる」ことであろうと思われる。教授法(共在の内容や教え方)の工夫と同じだけ、教師自身が困難を引き受ける(悩み・迷い・立ち止まる)。一人で悩むことが目的ではない。悩み・迷い・立ち止まるという仕方で、子どもたちと新しい質の関係を創り出す。
p35
自らを問題の深みに巻き込ませる。言いえて妙なこの表現は、死生の不条理さへの向き合い方を照らしてくれているのではないか。
姨捨山のように、死へ向かわせるわけでもない。「考えたって仕方がない」と切り捨てていくのでもない。どうしたって答えのないものを、他者とともに問う、考える、悩む、迷う。そうすることで、不条理を不条理なまま扱えるのかもしれない。
今回扱ったパートの断章に、娘を亡くした夏目漱石が描いた言葉が載っている。末の娘を「乳幼児突然死症候群」のようなもので突然亡くした漱石は、日記や創作において自分や他人を責めるような言葉を記していない。
(罪悪感のような言葉が)「ひな子」の出来事においては、まったく見られない。ただ「不思議である」という言葉だけが繰り返されている。
p48
漱石は、そうした不思議を眺め続けている。抗いもせず嘆きもしない。しかし無感覚ではない。観察できる事実の記述に専念している。事態に流されていく自分の姿をひとつひとつ丁寧に拾い集め記述してゆくような観察者の視線なのである。
漱石は、「なんで娘は死んだんだ」と理由を求めるのではなく、まさに不条理を不条理なまま扱っている。その核にあるのが、「不思議である」という言葉なのだろう。
そう思うと、本書の副題が「生まれてきた不思議、死んでゆく不思議、生まれてこなかった不思議」であることも味わい深い。
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読書会では、本の内容に沿ったはなしもあれば、大きく脱線しつつ、ここでしか生まれ得ない語りもあり、おのずと“その人”が滲んでくるような時間を過ごすことができた。これも、途方もないものを前に、他者と迷う効果なのだろうか。
次回は、【5/6 20:00〜】で「Ⅱ:赤ちゃんはどこから来たか–誕生の謎」を読みます。
もし一緒に迷いたい方いれば、下記のイベントページをご確認の上、お申し込みをお願いします。


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