
本記事は、6/3に開催した「おろおろする死生学読書会 『誕生のインファンティア』第四回」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
第一回、二回、三回のレポートはこちら。
https://torobibook.com/seitoshi/250423/
https://torobibook.com/seitoshi/250508/
https://torobibook.com/seitoshi/250521/
最終回となる第四章。副題は「生まれてこないということ」。誕生の不思議に視線を向けつづけ、最後は「生まれてこない」を眼差す。
まず、「生まれてこなかった子ども」の声を描いた本、オリアーナ・ファラーチ『生まれなかった子への手紙』が取り上げられている。流産を経験した著者の、告白的ドキュメント。
彼女(※ファラーチ}は、「生」を肯定する。「生きる」ことは「生きない」ことよりもよい(良い・善い・好い)と何度も繰り返す。にもかかわらず、他方で「生まれてこない」可能性を思う。生まれてこないほうがよかったという可能性。
p192
「生きる」ことは、「生きない」ことよりもいい。生の絶対的肯定。連綿とつづいている、「おおいなるいのちの摂理」に連なること。ファラーチは、これを「prepotenza プレポテンツァ」という単語で表現している。
訳者の竹山博英さんは、プレポテンツァを「絶対権力」と訳す。単語の語義としては、「横暴・横柄・圧倒的な権力」となるらしい。
「おおいなるいのちの摂理」と「絶対権力」。同じものを捉えながら、受け取り方が大きく異なる。
会のなかでも、いのちの流れについてはなしていた。
たしかに、おおいなるいのちの摂理はある、と思う。生物学的な視点でも、精神的な視点でも、過去から受け継ぎ、未来へと受け渡していくものがある。滔々と流れる大河。
その一方で、大河の奔流で溺れる個人がいることは事実だ。引用されていたファラーチもそう。いのちの摂理に乗ることを「よい」としつつ、たしかな葛藤を抱えている。
それは自身の社会的状況との折り合い(ファラーチは働いており、また婚姻外妊娠だった)もあるし、生の絶対的肯定への疑問もある。
「おまえ」は本当に生まれたいのか。もし生まれてくることを望んでいないなら、意に反して人生を開始させてしまうことになる。それは恐ろしいこと。責任を取る用意がない。「なぜ僕を生んだのか」という問いを突きつけられた時、答える用意がないというのである。
p191
ファラーチはこうも書いている。「おまえが再び沈黙の中に戻りたいとはおもっていないなどと、どうして私に言うことができるだろうか」。
参加した方が、「バビロン」というアニメ作品で出会った「善はつづくこと、悪はおわること」(意訳ですが)を教えてくれた。人間という種全体で見ると、つづいていくことが絶対の善になっている。生物的本能は、おわりへと抗うのだろう。
けれど、苦しみのなかで命を断つ選択をする人もいれば、根拠が見当たらない虚無感を抱える人もいる。全体の流れに、個がさいなまれる。個と全体の矛盾。大河で溺れるちっぽけな個人。
本章のテーマ「生まれてこないということ」は、この個と全体の矛盾を捉えているのだと思う。「生まれない」ではなく、「生まれてこない」という表現。「生まれない」ことを自ら選んだ可能性、という地平。
あらためてファラーチの「胎児の証言」を思い出す。胎児の世界では目的ははっきりしていた。生まれること。では生まれた後の世界では何が目的なのか。無に向かうことなのか。そうであるなら、なぜ無に向かうために、わざわざ無から出てゆかなければならないのか。胎児はそう語った。
p227
ということは、実は「生まれてこない」地平の方が本流なのではないか。むしろ「生まれる」ことの方が例外的で特別な出来事である。
いのちの摂理を考えるとき、僕は「生まれたもの」を想像していた。死んでいった存在はたくさんあるものの、最初から「生まれてこなかった存在」は思考の外にいたことに気づく。
本書では、「不生」という捉え方が語られている。
鈴木大拙は「不生」を「生死」と対比させて語っている点である。「不生」は生まれることも死ぬこともない。「不生」は「生が死に転ずる機会を失って、生そのものの永遠性が浮かび出るのである」。
「不死」とは、生きている者が死なないという意味である。それに対して、「不生」はそもそも生まれない。したがって、死ぬことがない。
「不死」が死の否定であったのに対して、「不生」は死と生の否定である。死ぬこともなく生まれることもないという意味において、「生死」とは異なる「永遠性」である。
すべてp228より
「私」が存在しない。「死んだ」のではない。「まだ生まれていない」のでもない。私が生まれないまま、ずっと、そのまま「生まれない」という意味において「永遠性」なのである。
p230
生と死とは別の次元ある世界を想像する。けれどそんな世界を、すでに「生まれたもの」である僕たちが捉えることはできるのか。少なくとも、そこに近づくための手がかりとして、本書は子どもの頃の感覚を扱っているのだろう。
ゆらゆらと生死が揺らいでいく。そのなかで、「身体的な生」についての話題が場にあがった。
普段、森や山という自然と向き合って仕事している参加者の方は、「死ぬ」という可能性がすぐそこにある感覚がある、と語っていた。
万全にそろえた道具に不具合が起きたときに抱く、自分は山に放り出されたちっぽけな動物でしかない、という感覚。森や山も生き物であり、油断すると足元をすくわれる、という感覚。
身体という、まぎれなもない現実に宿った「生」と「死」の感覚。これは、死生についてただ思考をめぐらすなかで感じるものとは、きっと絶対的に異なる。
この読書会もそうだけれど、油断すると、死生のはなしは観察対象になってしまう。遠い世界のもの、いつかやってくるとは知りつつ、身体的な実感はない。病などで実際「死の淵」に触れた人の語りが力を持っているのは、この実感があるからなのだと思う。
森や山で実際に抱いた感覚をお聞きしつつ、自分のなかにはそれがないのだと改めて気づく。現代社会の多くの人は、死を身体で感じたことがないとは思うけれど、それだとただの思考実験でしかない。
遠野を訪れた友人の語りを思い出す。異界がそこにある、という感覚。言葉では言えてしまうその感覚を、僕はまだ身体に宿したことがない。
もちろん、臨死体験などをすべきだ、とは思っていない。そこからしか死生を語ってはいけないとなってしまうと、特権性がうまれ、ますます死生が遠ざかる。思考は大事だ。けれど、思考するだけでも意味がない。身体に宿すという視点も欠かせない。同時に、心に浮かんでいる虚無感のようなものを、身体性がないと軽んじてもいけない。切実さは、そこにもある。
思考の世界でしか近づけないものと、身体の世界でしか近づけないもの。
この本で語られつづけているのは、「存在しないこともありえた生」や「そもそも生まれないという地平」など、死生の対地を超えたもの。この死生を超えた感覚に、僕は惹かれている。
その感覚を、ちいさくてもいいから実感として引き寄せようとすること。その実感でとまらずに、思考をつづけること。
思えば、この本で著者が挑みつづけているのは、こういうことだったのかもしれない。インファンティアとされる世界に触れるのは用意ではない。実感がない。だからこそ、さまざまな切実な語りに身を浸し、言葉を失いながら思考しているのだと思う。
じゃあ、僕は。
「死生」をテーマにした読書会の初回に、この本を読めてよかった。生きる意味などにずっと悩んできた自分の、それでもひたすら感じてきたある種の後ろめたさを、少しつかめた気がする。
たいした苦しみもないのに虚無感を抱いている自分を、いつも冷めた目線で見ていた。けれど、経験や実感がないからといって、死生について考えたり語ったりする資格がないわけがない。同時に、頭だけではわからない部分があるともわかっていたいし、他者の語りや感覚を受け止められる自分でいたい。
僕がたしかに持つ切実さのためにも、本を読み、死生を語りあう場を開きつづけていこう。さまざまな語りに、迷っていこう。
