
この記事は、7/15に開催した「おろおろする死生学読書会 『声の地層』」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
次回は7/29。ぜひご参加ください。
https://torobibook.com/seitoshi/koenochiso_0/
『声の地層』には、著者の瀬尾夏美さんがきいてきた災厄や痛みの語りが載っている。その現れ方が特徴的だ。
ひとつひとつの章は、「物語」と「あとがたり」で構成している。何かを語ってくれたその人が感じていたであろう“語れなさ”と、その語りの傍らにあったはずの、語られないこと、語り得ないことを忘れずに残しておくために、創作の「物語」といいう余白を含み込める形を選んだ。
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語られた声をそのまま記録するのではなく、詩や掌編小説などの形にして記録していく。この、ある種の直接的ではない記録方法は、瀬尾さんが大切に眼差している“語れなさ”ゆえなのだと思う。
僕は、ライターとしてインタビューを何度もしてきた。そこで感じるのは、文字起こしという二次元のデータには宿り得ないものがある、ということ。一瞬荒くなる息づかい、沈黙とは呼べないくらいの間、宙を見上げる表情、開け閉めされる手のひら。差しだしてくれたことばたちは、とても大切なもの。でも、それと同時に、ことばだけでは追い縋れないものがこの人のなかにはあるんだろうな、と身体全体で感じることがある。
会の参加者のひとりは、地域医療に関わっていて、高齢者の方のお宅へ在宅訪問することがあると話してくれた。
医療的な解決と、残りの人生をどう生きていきたいか、を会話のなかから探らないといけない。ついつい会話の内容だけから合理的に判断しちゃいそうになるけど、お家に置いてあるものとかから、その人の想いを感じることがある。語りの内容というより、語らいの場があることが大切な気がする。
参加者のことば
それを聞いた別の人は「お家だと、まるっと“その人”をきけるのかもしれないですね」と言った。
瀬尾さんが“語れなさ”をも含み込んで、物語として記録しているのは、実際に現れたことば以外もきこうとしているからだと思う。その人に触れるように。
じゃあ、「その人をきく」ってどういうことなのだろう。
以前、僕が語る側になることがあった。たしかに、語りをきいてもらった。けれど、僕という人間をきいてもらった感覚はなかった。心のなかには、さびしいが浮かんでいる。
会のなかでも、この経験をはなし、語りが消費/消化されることを考える時間があった。そのなかで出てきたのが、一回きりで終わらない、ということ。
参加者のひとりは、「語りたいときって、わかってほしいときなのかも」と言っていた。それに対して、「でも、わかってほしいのに、わかってほしくないこともありません?」という投げかけがあり、「たしかにあるかも」と返していた。
わかった、が出たら語りって終わっちゃうんですよね。
参加者のことば
これは、なにかを語ってみると強く感じる。そもそも語る側は、きく側が思っているよりもわからないまま語っている。痛みにまつわる語りは、なおさらそうだ。自分でもつかめない。だからこそ語る。けれど、本当にそうなのかと、語ったことばが自分にまとわりついて問いかけてくる。
おそらく、わからなくて、そして、そのわからなさを一緒に抱えていきたくて、人は他者へと語るのだと思う。
わからない語りに触れたときは、「きかせてもらったけど、自分にはわからなかった。だから覚えておきますね」って言っています。
参加者のことば
誰かが語ったわからなさが、自分に留まる。ずっとじゃなくてもいいが、ときおり反芻する。それが覚えておくということだし、わからなさを一緒に抱えていくということ。
その運動を共にできたとき、ようやく「その人をきく」が生じるのではないだろうか。
そう考えると、本書のタイトル『声の地層』は、「人が語り、人がきき、なにかが積み重なっていく営み」そのものを示しているとも捉えられる。
語りは、語り重ねることで、語りになる。その傍らにはきく人がいて、その語りのなかには、別の人の影がある。
語らいが生まれていく場では、ここにいる存在もいない存在も、たしかにきいてもらうことができるのかもしれない。
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第二回は、7/29 20:00〜@ZOOM で行います。扱う箇所は<6章〜11章 p95〜p191>。耳だけの方や、読めていないけど…という方でもご参加できますので、ご興味があれば、とろ火のDMや問い合わせ、info@torobibook.comなどへご一報くださいませ。

