
この記事は、7/29に開催した「おろおろする死生学読書会 『声の地層』」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
次回は8/19。ぜひご参加ください。
https://torobibook.com/seitoshi/koenochiso_0/
語りは、とても味わい深いものだと思っている。だからこそ読書会もしているし、今回の『声の地層』のような本にも響き合わせてもらえる。
一方で、語ることの危険性も見つめないといけないのではないか。『声の地層』の読書会2回目となる会では、語ることを両面で捉えようとする話題が多かった。
脱線に脱線を重ねて、一周して本の内容に戻ってきたような時間だったので、下記の記録は掴みどころがないかもしれない。けれど、大切な語りが生まれたように思う。
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尊敬しているライターさんに、「インタビュー記事を書くことの暴力性」について教えてもらったことがある。
はなしを聞かせてもらい、その人の物語として記事を書く。その営みの偉大さの裏側には、その人のストーリーを規定してしまうという側面もあるんだよ、と。
本来、その人の体験や記憶、ひいてはその人自身を語り切ることなんて到底できない。『声の地層』の著者、瀬尾夏美さんが“語れなさ”に思いを馳せているよう、どうしたって暗闇に隠れつづける部分は存在する。
けれど、その事実を忘れた状態でなにかの物語に触れたとき、その物語こそが“その人”なのだと、さまざまなものを削ぎ落としてしまう危険性がある。
大きめのライブ会場に行くと、開演前にスモークがたかれていることがある。うっすらとモヤモヤしたものが漂っている。それ自体があることはわかるけれど、うまくつかめないもの。
けれど、照明が当たるとその光線上にくっきりと浮かび上がる。そこにだけなにかが存在しているかのように。
語るとは、この光線をつくりだすことなのだと思う。どうしたってつかめない内側のモヤに道筋を与えようとすること。その浮かび上がりによって、モヤは了解可能なものになりうる。
僕自身、鬱病になった当時は道筋を切実に探していたように思う。内側にうずまきつづけるものは、それそのものを観察することなんてできず、何度も何度も語ることでいくつもの細い道筋をつくってきた。その道は細かったとしても、たしかな足場になる。
一方、前回の記録で下記のように書いたけれど、語ることはわからなさに出会いつづけることでもある。
誰かが語ったわからなさが、自分に留まる。ずっとじゃなくてもいいが、ときおり反芻する。それが覚えておくということだし、わからなさを一緒に抱えていくということ。
<図>と<地>の関係性のよう、語ることで生まれていく足跡と暗闇は、補完しあっているのかもしれない。そのバランスが偏ると、暴力性が強くにじみ出してしまう。
では、語りの両面性を見据えつづける態度とは、どのようなものなのか。
参加者のひとりがこう言っていたことを思い出す。
『声の地層』に登場する語りって、「語らざるを得ないもの」な気がする。
語らざるを得ない。それは、その人にとって切実な語りだという証。そのとき、語ろうとする対象、例としてあげたモヤのようなものをどのように捉えているのだろう。
ぐるぐると考えながらはなしていたとき、ぽろっとでてきたのは「おそれ」ということばだった。
切実な語りをする人は、内側にうずまくものをおそれているのではないか。モヤが急に爆発したり、渦に引きずり込まれたりするのではないか、というおそれ。どうしたって制御できないものが内側に存在している、というおそれ。
本書で繰り返し登場する災禍にまつわる語りは、まさにそうだと思う。不条理としか呼べないものから受けた痛み。その痛みのまわりにある思考や感情、感覚は、人間に扱える範囲をゆうに超えている。どうしたって太刀打ちできない。
だからこそ語る。呑み込まれないよう、語る。おそれを消し去ろうとするのではなく、おそれと共にいるために語る。
その語りを受け取った人は、おそれの一部を内側へと取り込んでしまう。語りを聞けば聞くほど、制御できないものが増えていく。だから、今度は自分が語る。何度も語る。こうして、語り継ぎになっていくのではないか。
少し種類の違う語りではあるけれど、哲学対話を広く行っている哲学者の永井玲衣さんが、「哲学対話をすることで人は弱くなる」と言っていた。哲学対話の場で語れば語るほど、聞けば聞くほど、人は弱くなっていくんだと。
それはきっと、自分の、他者の、世界の途方もなさ、どうしたって太刀打ちできない大きさに触れつづけるからなのだと思う。
読書会のあと、参加者のひとりが「モヤモヤが少し整理されました!そしてわからないこと、わかってないことがその10倍増えた感覚です笑」とメッセージをくれた。
ほんとうにそうだなぁ、と思う。足を一歩進めるたびに、未知の世界が広がりつづける。途方もなさに圧倒されつづける人間は、きっと弱いのだろう。
弱いからぐるぐると考え、おろおろと語り、また迷いながら足踏みをする。
瀬尾さんは、「はじめに」でこう書いていた。
置かれた境遇も考え方も異なる人たちが、互いのすべてを分かり合うことは難しいと感じながらも、それでも関わろうとする。すこしの勇気を持って、この人に語ってみよう、と思う。その瞬間、ちいさく、激しい摩擦が起きる。マッチが擦れるみたいにして火花が散る。そこで灯った火が、語られた言葉の傍らにあるはずの、語られないこと、語り得ないことたちを照らしてくれる気がして。それらを無理やり明るみに出そうとは思わない。ただその存在を忘れずにいたい。
p7
語るとはきっと、一本の道をひたすら踏み固めていくものじゃない。行きつ戻りつ、おそるおそる足を伸ばしたり引っ込めたりすることだ。そのためらいの過程が、決して近づきえないものの欠片を一瞬だけ映し出してくれるのだと思う。
ためらいながらも語ってみる、という選択。決断。おそれと共にいるために語るんだ、と書いた。けれど、「おそれと共にいようとする」意志はなぜ生まれるのだろう。
そんなことを考えながら、また次の会に向けて『声の地層』を読んでいこう。次回で最後です。
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最後となる第三回は、8/19 20:00〜@ZOOM で行います。扱う箇所は<12章〜最後まで p192〜p282>。声を出せない方や、読めていないけど…という方でもご参加できますので、ご興味があれば、とろ火のDMや問い合わせ、info@torobibook.comなどへご一報くださいませ。

