生きる意味なんてないと考えている。正確に言うと、絶対的に正しい、揺るぎのない生きる意味なんて、そんなものはないと。
じゃあ、生きるのをやめてもいいか…と思考が転びそうになるのだが、「生きる意味がないから生きるのをやめよう」というのは僕にとって滑らかすぎて、なにかに負けた気がして、癪だと思ってしまう。
だから、生きる意味はないとわかりつつ、それでも求め続けたい。そこに座って安心したい、のではなく、あがき続けたい。
「あがく」とは、「もがく」よりも絶望的な状況において使うらしい。意味のない生を突き付けられるのは、ある種のとんでもない絶望だろう。でも、そこで泥まみれになって、手足をばたつかせてみる。
あがくための生きる意味。それが、僕にとっては「思考とことばが生きる意味」という言葉だった。
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どのように浮かんできたのかは記憶にないけれど、数年のあいだ心に抱いてきた言葉。思えば、この言葉を抱きつつ、それに相反する日々をおくっていたことで、僕はかつて精神的に壊れてしまったのだと思う。
心や身体を渦巻くものを“思考”と捉え、それを誰かと分かちあえ得る形にしたものを“ことば”と捉えたとき、当時の僕は思考が麻痺し、ことばの裏には自分がいなかった。
人が持つ世界には唯一性がある。目の前の事象が同じだとしても、それをどのように感じているかは、ひとつとして同じものはない。一人ひとりの思い・考えに、唯一性がある。そこに、面白さと面倒くささが宿るはずだ。
なのに、その唯一性は簡単に抑え込まれる。「普通はこうなんだよ」「そんな風に思うのはおかしい」といったナイフで、傷ついてしまう。傷だらけになると、自分の思考を放棄した方が楽だと思えてくる。その結果、僕の思考は、つまりは唯一性は麻痺してしまった。
そうならないために、思考を放棄しないためにこそ、“ことば”が必要になるのではないか。思考を誰かと分かちあえうる形にしたもの。それは言葉かもしれないし、写真・絵・料理・活動・仕事・ものづくり・音楽…など、あらゆる形態の可能性がある。(その可能性を含ませたいからこそ、ひらがなの“ことば”と記している)
思考にべったり紐付いたことばを探ること、ことばを発することで、また新たな思考が生まれる。その思考を見つめて、ことばを生みだしていく。思考とことばの果てしない循環を回していくことで、唯一性を抱え続けることができる。
そうしてなんとか握りしめられる唯一性が、意味のない生へのあがきなのではないか。
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…と書いたものの、文章が上滑りしている感覚がある。思考は積もっているのに、僕のことばが追いつかない。いや、きっと思考の積もりも足りないのだろう。ことばを生むため、悩み抜くことも足りていない。
思考とことばの繋がりは、どういったものなのか。思考とことばの循環は、どう生まれるのか。その循環は、意味のない生へのあがきになり得るのか。
さまざまな問いを携えつつ、思考とことばをめぐる多様な語りに触れ、僕自身の思考とことばにも動的な関係性を結んでいければ。
「思考とことば」は、その人の唯一性と表現との循環を眼差すための営み。どうぞよろしくお願いします。