清濁を併せ呑むための表現。荒井裕樹さんの『生きていく絵 アートが人を<癒す>とき』を読んで。

生活者の探究/表現

夜、無事に寝てくれたお子を妻に託して、近くのカフェへ。数年間積読していた荒井裕樹さんの『生きていく絵 アートが人を<癒す>とき』を読む。

亜紀書房 - 生きていく絵 アートが人を〈癒す〉とき
亜紀書房刊行の書籍の紹介。社会問題を扱う書籍からビジネス書、実用書を発行する出版社。
『生きていく絵』荒井 裕樹|筑摩書房
筑摩書房『生きていく絵』の書誌情報

荒井さんは、文学研究者で、障害者文化論を専門にされている方。この本では、精神疾患を抱える方たちの自己表現に焦点があたっている。

積読していてよかった。僕自身がとろ火という活動をはじめ、短い期間ながらもつづけてきた時期だからこそ、この本の内容と響きあうなにかが自分に育っていたのだと思う。

表題のように、この本が触れているのは「絵」だったり「アート」だったりする。けれど、もっと射程を広くして考えられそうな手がかりがある。

ある人が表現を生みだしていく過程や、その人に表現を生みださせていく場や関係性の力そのものをアートとして捉えようという視点です。

p26(すべて単行本に依拠)

私が試みたいのは、生みだされた個別の表現物(=作品)と、それを生みだす場の力を同時に捉えつつ、自己表現が表現者の<生>にいかにかかわるのかを読み解くことです。

p28

本文の序章に書かれている言葉からも、ここで扱おうとしている「アート」はかなり多岐にわたることがわかる。

そのアートによって生まれるのが<癒し>…ということなのだが、括弧で括っているよう、この単語には特別な意味がある。

「苦しみを誰かに伝えられた」としたら、その人は瀬戸際で何とか耐え忍ぶことができるかもしれません。
この「何とか耐え忍ぶことができる」という状態のこと。あるいはそのような状態を可能にするエネルギーのようなもの。それを、ここでは<癒し>と呼んでおきたいと思います。

p20

そして、少し飛躍するかもしれないけれど、僕の「とろ火」という活動も、この本に照らし合わせると「アート」として存在しているんだなと感じる。

この活動をしていて、「なんではじめたの?」「なにをしたいの?」と何度も問われてきた。そのたびに、ごにょごにょ言いながら誤魔化してきた。

障害者が明確な目的もなく表現活動に没頭すること、あるいは表現すること自体を目的として何かを表現することというのは、想像以上に理解を得られず、また受け入れられにくいというのも事実だと思います。

p267

しかしながら、そのような表現が「生きていく」ために必要な場合もあり、事実、ある人たちの「生きていく」ことをつなぎとめているという側面があるのです。

p268

活動の動機や目的を尋ねられたとき、ごにょごにょするしかなかったのは、最初からそれらがなかったからなのだと思う。いうなれば、僕がなんとか生きていくため。

このあいだ友達とはなしていて、僕の口からぽろっと「僕にとってのとろ火みたいな活動が増えたらいいなぁ」という言葉がこぼれてきた。

とろ火をはじめる前から僕と仲良くしてくれている人たちからは、ありがたいことに「とろ火の活動には、あくつさんの真ん中が出てるよねぇ」と言ってもらえることが多い。このような、誰かの真ん中が滲んでいるものに、もっと触れたいのだろう。

自分による表現でしか得られないものもあれば、他者の表現にふれることでしか生まれ得ないものもあるはず。

以前読んだ、西村佳哲さんの『かかわり方のまなび方』という本で、自殺防止活動をされている方がこんなことを言っていた。

人は応答する存在として生きている。

アートを場や関係性にまで広げて捉えるのなら、自己表現は自己だけで完結はしないだろう。まさに応答するかのように、誰かの表現に問いかけられ、また誰かの表現が生まれていく。そのうねりのような流れそのものが、この本で見つめているアートというものなのかもしれない。

こうしたアートでは、なにが起こっているのか。その核を表しているように思えた箇所がある。

(「患者になる」に)対して「病む」とは、病気を自分の一部分と認めて継続的に共生していくことである。それは主体的に苦しみと向き合うことでもあり、生きることそのものが最終目標とされる。

p211

そして、荒井さんは精神疾患を抱えながら自己表現している方たちを、「患者」ではなく、「病むもの」と呼ぶ方が相応しいように思える、と書いていた。

<癒し>と「何とか耐え忍ぶこと」がイコールで結ばれていたよう、自己表現を重ねていっても、苦しみは決して消えはしない。重度な鬱病を患った人が、自己表現をしたからといって、治るわけではない。けれど、<癒し>にはなるかもしれない。

だとしたら、表現によって生まれるのは、二重性なのではないだろうか。苦しみに飲み込まれ、真っ黒に塗りつぶされることから逃げていく。けれど、漂白するのではなく黒は黒のまま存在させる。真っ黒なものを、ただ在るようにする。

「生きる」とは、言外に、肯定的で上昇的な意味合いを含んだ言葉ではないでしょうか。
(中略)
対して、ここで本木さんが使う「在る」「存在」するという言葉は、正にも負にも揺れ動く「症状」に葛藤し、その痛みを耐え忍びながら生存し続けていくといった意味でしょう。

p118

「症状と共に在る」というのは、症状の揺れ動きを耐え忍び、肯定・否定の両面をまとめて受容しようとする<生>の営みです。

p119

肯定と否定の二重性。これは、意味付けを手放す、といった態度とは根本的に違う気がする。悟りを目指すのではなく、右往左往していくことを受け容れた態度。揺れ動きを前提にした態度。

自己表現をし、誰かの表現に触れることで、苦しみの清濁を併せ呑み、何とか耐え忍んでいく。

「とろ火で感じたいのはこれか」と思った。動機や目的というよりも、活動のなかで浮かび上がってきて欲しいもの。

この本では、精神疾患に付随する苦しみや過去のトラウマなどの苦しみに耐え忍ぶ、という様子が描かれている。僕は鬱病になったことがあるので、自分と重ねながら読めた部分はある。一方で、僕は重度ではなかったことからも、違う世界のはなしなのでは、と思いそうになる自分もいた。

けれど、改めて強く思うのは、この本は迷いながら生きるすべての人のはなしであるということ。精神疾患の有無や、苦しみの大小は関係ない。

よくおはなしさせてもらう先輩が、「個性って、こうとしか生きられない、ってことだと思う」と言っていた。

以前、編集で携わったインタビュー記事では、精神科医の泉谷閑示先生がこう言っていた。

本当に小径に逸れざるを得ない人は、大抵一度具合が悪くなるんです。みんなと同じ大通りを歩けなくなる。生き詰まる、悩んでしまう。

生きづらさに、おめでとう。人生の続編は、大通りから外れて始まった | 精神科医 泉谷閑示

こうとしか生きられない、という小径。そこにいたるまでは茨だらけで、糸のような細い道も、きっと心地よくはない。でも、手放したら存在が揺らぐもの。ともすれば、病に見えてくるもの。

大通りから迷い込んできた人は、かすり傷から大怪我まで、さまざまな痛みを抱えているのではないか。そして、その痛みへの肯定と否定を併せ持つことでしか、小径は進めないのではないか。

もう一度。数年間、この本を積読していてよかった。いまこのタイミングで読めたことで、大切なものを受け取り、まさにそれに応えようと思えた。

これから先、何度も立ち返る本になりそうです。

お手紙のようなニュースレターをはじめました。記事の紹介や、記事になる前の生煮えのものを書いた文章たち。不定期ですが、よろしければこちらからご登録ください。