
午前中、お子を妻に任せて、近くのカフェで分厚い本を読み終えた。本を閉じたとき、いまの感覚を捉えたい、捉えないといけないと思った。
僕には、小学生のころに出会い、気がつくと心のまんなかを占めていた言葉がある。
俺にはよく分からないんだ
この世界が、本当に、本物なのか。
そんなの、考えたこともなかった。
『キングダムハーツ』というゲームの冒頭に出てくるこの台詞が、いつのまにか存在感を濃くしている。その理由を、うまく捉えることはできずに何年も過ごしていた。
この世界は、本当に、本物なのか。その疑念に惹かれている自分。そこに流れている正体不明の“なにか”に、今日ようやく触れられた気がした。
それは分厚い小説、星野智幸さんの『ひとでなし』を読み終えたときだった。

主人公である鬼村樹(下記:イツキ)は、小学5年生のとき担任から「嫌な気分は何もかもノートにぶちまけて、言葉の部屋に閉じ込めなさい」と言われ、架空日記をはじめる。
現実のことを書き残すのではなく、架空のはなしを書きつける日記。
この架空日記について、担任である「セミ先生」はこう言っている。
「自分に都合のいいお話を作って、そこに洗いざらいぶちまけるんだ。そして、悪い気持ちを日記という部屋の中に閉じ込める。というか、悪い気持ちの自分に、言葉という棲家を作ってあげる」
p17
そして、架空日記をつけはじめたイツキが感じはじめたこと。
この架空日記を書き終えたとたんイツキは、自分が夢の中にいることを自覚して夢を見ているときのような、自分が自分から剥がれる感覚を覚えた。そして、実際にハカマダ(※)という別の自分がこの世界に重なるようにして存在していることを、確信した。
p27
(※ハカマダ=架空日記に登場する人物)
こうして、イツキはさまざまな出来事にぶつかるたび、架空日記を書いていく。『ひとでなし』という小説は、この架空日記に頼りながら、または頼らずに、ひとりの小学生が約50年を生きていくさまを描いた作品。
さらに、読者である僕たちが生きている世界での出来事 −−たとえばバブル崩壊やサッカーのワールドカップ−− なども描写される。
いままで「小説のなにが好きなのか」と問われると、「ここじゃないのに、たしかに存在する世界に没頭すること」と答えてきた。ペラペラの紙と印字されたインクが生み出す、別世界。
けれど、『ひとでなし』で感じたのは、別世界との境界がわからなくなる感覚だった。僕たちにとって現実とされている次元、イツキにとって現実とされている次元、架空日記のなかに存在している現実という次元。それぞれが、読み進めていくうちに混濁していくような。
それは、決して心地よいだけではなかった。混濁は、別世界への移動ではないから。いま現実とされている次元がなくなるわけではない。けれどそれでいて、その次元だけではないんだと身体が知っている、という身軽さもある。
現実/架空という二分が意味をなさなくなり、あちらとこちらが混ざっていく。
「私、しょっちゅう、自分は空想上の存在だなって感じてた。その架空の存在が、こうして普通に生きてるって、不思議だなって。だから、ここは架空の現実なのかな、って」
p591
この不思議さを、僕もずっと感じてきたことに気付く。僕が抱えつづけている問い、「生きる意味はないのに、なんで生きているんだろう」の根底には、架空の現実への不思議さが宿っている。
これは、「いま現実とされているものは夢のようなものだ」のような、醒めた視点ではない。架空の現実なのであって、ひとつの現実としては認識しているから。
書籍のなかで、さまざまな意味付けを越えた文言に出会うことがある。たとえば、戦争という出来事さえも、ひとつの現象に過ぎないから、とくに賛成でも反対でもない、というような。
「なんで生きているんだろう」と誰かにふと漏らしたとき、こういった醒めた視点を持っていると思われることがある。「生きる意味はないんだから、好き勝手やりゃいいじゃん」と言われることも。
これらの言葉にずっと違和感があったのだが、その正体は、結局のところ「ひとつの現実」に収束させているからなのかもしれない。
作中、イツキの言動を追っていると、虚脱感を抱いていることが多い。明確な自殺願望にもならないくらい、自然に消えていきそうな瞬間がたくさん描かれている。そんなイツキなのに、紛争や災害などの報道に触れたときは、心が散り散りになっていた。
この一連の描写で、僕は泣きそうになってしまった。虚脱感を抱きつづけながらも、生が奪われる暴力に言葉を失っている姿。ある視点では矛盾するものが、ひとりのなかに確かに存在していることに、安堵を覚えた自分がいた。
自分が今の今まで生きてこられたのは、あの電車での出会いがあったからで、そうでなければ生きられる隙間を見つけることはできず、少しずつ亡くなっていくしかなかったかもしれない。タツキとなって。その分岐点は偶然の出会いにかかっていたと思うと、やるせなさでいっぱいになると同時に、出会えたことのかけがえのなさを抱きしめたくなる。
p569
誰しもがかけがえのない“ひとり”であるという次元。すべての存在はただの現象にすぎないという次元。一見両立し得ないそのふたつが同時に在る。
情報として知っているだけだけれど、現実感喪失症というものがある。この現実が現実ではないと感じてしまう感覚で、精神病とつなげて語られていることが多い。
この症状を知ったとき、僕は「この現実が現実ではないと感じてしまう感覚」そのものは、どの次元に存在しているのだろうと思った。その感覚は、新たな現実を生み出しているとも言い得るのではないか。(もちろん、苦しみとして現れる場合も多いはずなので、良いものだと言いたいわけではない)
さまざまな次元が同時に在る、という状態。
「ああ、わかる、かな。私もたぶん、いくつも現実を横断して生きてきた気がする」
p594
(中略)
自分は一人だけ存在しているのではなくて、無数にいるのに、はたからは一人と認識されているので、無数であるけど自分という感覚を証明することはできない。
この感覚は、「逃避」と称されてしまうのだろうか。それこそ、イツキが書きつづけている架空日記は、現実からのただの逃避なのだろうか。
この『ひとでなし』という作品を読んで僕が感じたことは、現実逃避としての身軽さなのだろうか。
そんなわけがない、と僕は叫んでいたいのだと思った。
イツキが架空日記で感じた「自分が自分から剥がれる感覚」は、痛みを伴うこともある。都合のよい逃避じゃない。現実を横断していないと解体されてしまう存在がいる。
虚脱感を宿しつづけるイツキが死ななかったのは、死ねなかったのは、いくつもの現実を横断していたからだろう。ひとつの現実に留まっていたら消滅していたのではないか。
現実はひとつじゃなく、この世界にはたくさんの現実がある。ひとりひとりのなかに存在し、ひとりのなかにも無数にある。
この記事の冒頭に書いた台詞、「この世界は、本当に、本物なのか」は、数多の現実の存在をとなえている。僕はそこに惹かれつづけているのかもしれない。
いまこの瞬間は間違いのない現実だけれど、いまこの瞬間だけが間違いのない現実ではない。そんなことを考えていると、だんだん頭も身体もふわふわしてくる。生きている実感があるのに、生きている実感がない。
それは、実感が揺らいでいるのではなく、「生きている」ことへの眼差しが揺らいでおぼつかなくなっているのだと思う。
このおぼつかなさは、危うさではないだろう。僕はこの感覚こそが、豊かさなのだと思う。
決して心地よいだけではない豊かさを突きつけてくれた、『ひとでなし』という作品。さまざまな現実に存在する僕の命綱になっていくんだろうな、という直感がポロリと剥がれ落ちた。

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