とろ火で掲げる「その人を“その人”たらしめるドロっとしたもの」を見つめる道として、「生活者の探究」と「存在するための表現」を考えていました。
探究とは、世界にあふれている“わからない”や“ふしぎ”に触れ、なにかを知り、考えつづけること。そして表現とは、自分の感覚や思考を、目に見えるさまざまな形として残そうと試みること。
どちらも大切な営みだと思い、ぐるぐると考えを進めていたなかで、もしかすると、これらは<表/裏>の関係、つまりはふたつでひとつの営みなのでは、と思うようになりました。
「生活者の探究」と「存在するための表現」は循環すること、あるいは溶け合うことで、意味を為していくのではないか。
僕自身の頭の整理を含め、書き連ねてみます。
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「生活者の探究」について、僕はこう書いていた。
(生活者の)探究とは、属人的な引っかかりを放り出さずに考えることで、他でもない“自分”として生きるための営み、である。
(中略)
「生活者の探究」は、世界と出会いなおし、ちっぽけだけれどたしかな自分でいるための営み。
思考とことば、という言葉であらわしていた「存在するための表現」については、このように。
思考と、それを他者とわかちあえる形態に落とし込んだ“ことば”を循環させることで、自己の唯一性を抱え続ける営み
この文章を書いていたときは、
生活者の探究=インプット中心=内的な営み
存在するための表現=アウトプット中心=外的な営み
と二分して捉えていたのだと思う。
けれど、探究は内的であり、表現は外的なのだろうか。おそらくは、探究に表現は自ずと含まれているし、表現にも探究は含まれている。内と外はそもそも入り組んでいて、分かつことができない。
そう考えるようになったのは、“表現”と呼んでもいいと思えることをおずおずと試してみて、感じはじめたことが大きなきっかけ。
昨年、ポッドキャストでおすすめされていた歌人・穂村弘さんの『はじめての短歌』を読んでから、短歌に惹かれていた。歌集を買ったり、SNSでの短歌投稿を見てみたり。
そして最近、ようやく自分で短歌をつくってみた。匿名の投稿サイトでぽつぽつと。言葉を扱う活動をしてきたけれど、短歌の周りにある言葉は大きく違うもので。「ぐぬぬ…」となりながら、つたない歌をつくっている。
このとき、「僕のなかにある“なにか”」を表現するのではなくて、「世界に触れたことで浮かんできた“なにか”」を掴まえようとする、とでも言うような感覚を抱いた。
こないだ、歌人の伊藤紺さんが出ているポッドキャストを聴いていたら、「歌をつくるときは、家にこもっている。なにもしないでずっとこもっていたら、ようやく歌をつくれるモードになる」というようなことをお話していた。
これを「表現モード」と名付けるとしたら、僕にとっては世界に触れることがきっかけになるらしい。
具体的に言うと、散歩だったり、誰かとの語りあいだったり、没頭した読書体験だったり。意識しないと流れていってしまうものに、足/目を止める体験。それらを続けていないと、凝り固まっていく感覚がある。(凝り固まると、だいたいSNSやYoutubeで時間が溶けてしまう)
そこまで考えて気付いたのは、「意識しないと流れていってしまうものに、足/目を止める体験」とは、僕が「生活者の探究」で言おうとしていたものなのでは、ということ。
生活者の探究をすることで、世界に出会いなおし、表現が生まれる。そして、掴まえようとした“なにか”が思考を引っ張りだし、探究がはじまる。
そうなると、探究をつづけていること自体が表現に見えてくるし、表現してきたそのものが探究活動とも思えてくる。
ふたつの営みは、ぐるぐると循環したり、裏と表がひっくり返ったりと、切っても切り離せないものなのかもしれない。
―――
散歩していて、用水路の流れに目を奪われたことがある。水は一瞬たりとも姿を同じとせず、ひたすらに流れ続けている。水音をじーっと聴きながら心地よさを感じ、僕と流水のあいだに生まれた“なにか”を掴まえたくなった。
そうしてつくったのが、この歌。載せるのは怖いけれど。(この怖さについても考えてみたい)
流れる水を閉じこめたあの瓶を割って毎朝取り戻すきみ
気が付いたら瓶を割っていたのだけれど、これをつくったあとで、澱んでいる自分が想起された。水は流れるから澱まない。人間だってそうではないか。止まると、澱む。でも、世の中は無常であって、水が流れ続けるように、人間も移ろいつづけているはず。その移ろいに、どう目を向けたらいいのだろう。僕は、その感覚を迷うと言っているのかもしれない。迷うって、流れる水のように生きることなのか。風もそうかもしれない。思えば、風に吹かれるのが好きなのも、そういう理由なのか…
のように、表現してみたことで生まれたものがあった。
この一連の流れは、生活者の探究でもあり、存在するための表現でもあり。そのなかで、僕は“僕”だった気がする。
そして大切なのは、つたなさがあったとしても、この感覚を抱けたこと。探究に「生活者」を付けたよう、表現にも「生活者」を付けるべきなのかもしれない。
その人を“その人”たらしめるドロっとしたものを、「生活者の探究/表現」で見つめていきたい。