苦しみは苦しみのままだけど。抱えていたら、味わいが滲むから。|伊藤絢一さん

生活者の探究/表現

数年前から、「生きづらいな」と感じることが増えた。日常という道を、まっすぐ歩けない。あちこちにぶつかりながら、でも派手にこけるわけでもなくて。痣を全身につくりながらも、歩みを止めるほどの痛みではなくて。

そんな状態だからか、同じような痛みを抱える友人たちに救われてきた。「生きづらいよなぁ」とわかちあうことで、なんとか歩いてきた数年だったように思う。

けれど、その連帯が広がりかけたところで違和感が生じた。わかちあうことは、もちろん大切。でも、誰ともわかちあえない“その人”しか持っていない実感は、つないだ手からこぼれ落ちることもある。

「生きづらいよなぁ」に救われているだけだと、自分だけの苦しみが見えなくなっていく。

以前、「あなたを救えるのは、あなたしかいない」という記事を書いた。これは別の僕の記事に「救われました」と感想をもらい、少しざわりとしてしまったという内容。

僕はあなたの苦しみを大事にして欲しいと強く思う。共感や代弁で溜飲を下げないで欲しい。

それは、あなただけの苦しみを抑圧することと同じなんだから。

あなたを救えるのは、あなたしかいない

4年前から届いた言葉が、僕自身に刺さる。僕はまだ、僕の苦しみを大事にできていない。

だから、苦しみを見つめてきた人のおはなしを聞きたかった。今回取材させてもらったのは、そんな人。彼は取材のなかで、こう言っていた。

苦しんだ先かぁ……なにかがあったというより、一周回った感じかな。結局いるところは一緒なんですけど、見え方が違うというか、苦しがり方が違うというか。苦しみを味わおうとする余裕がある。

彼の名は、伊藤絢一さん。社会保険労務士……の方だけれど、なにをしているのか説明できない人。自己紹介には、<「はたらく」を、ゆるく、たのしく、おもしろく。>と書いてある。

個人の「はたらく」をイイ感じにするため伴走したり、社会にイイ感じの「はたらく」を増やす活動をしたり。

自己紹介にも活動内容にも、やわらかな感覚を抱く。けれど、伊藤さんには「働くことが向いていないんだ」という、本人いわく“暗黒期”があったとのこと。

働くことに苦しんできた伊藤さん。いまもよくわからないなぁ、と言っている。でも、その表情には苦み以外も滲んでいた。

「生きづらさ」という言葉には回収され得ない、誰ともわかちあえない“その人”しか持っていない実感。個人にこびりついた苦しみを、僕たちはどう大切にしていけばいいんだろう。

そんな問いを片手にたずさえながら、伊藤さんの実感を読んでもらえたら嬉しいです。

「働く」がマジでわかんないんです

「働」って漢字が大っ嫌いで。ぱっと見て、なんかお堅いじゃないですか。ギュッてしてる。逃げられない感じ。主観ですけどね。

しかも、この「働」って明治以前にはない漢字なんですって。つまり、近代西洋的な価値観、産業革命以降の価値観が詰め込まれたもので。

もともとね、嫌だったんですけど、調べたらより一層。だからですかね、「働」とか「労働」には、ちょっと画一的な印象を持っています。

思えば、「労働」と聞いたとき、頭に浮かぶ映像はどこか暗い色をしている。灰色の世界で、そこにいる人の顔にはなぜか生気がない。ぽっかりと穴の空いた目。

「働」も「労働」もただの言葉だけれど、それは偉大な言葉でもある。漢字にこもっている意味、年月を経てまとってきた文脈には、大きな力があって。しらずしらずのうちに、巻き込まれてしまう。

なので、わたし的にはひらがなの「はたらく」の方がしっくりくるかな。外見もやわらかいし、余白がありますよね、なんだか、油断だらけな感じ。ギュッとしてないから、個々のデザイン性を入れ込む余地もあるし。

油断だらけ、という言い回しがストンと胸に落ちる。個々のデザイン性を入れ込む余地がある、つまりは、「はたらく」には“その人”が滲む可能性がある、ということ。

伊藤さんの以前のnote記事には、ひらがなの「はたらく」は「いきる」に近い、と書いてあった。感性や、その人に紐づく生っぽいものからはじまる「はたらく」は、「いきる」なのではないか、と。

それは、とろ火として掲げている「その人を“その人”たらしめるドロっとしたもの」と重なる気がした。

では伊藤さんは、どのような流れで「はたらく」を見つめるようになったんだろう。

もうね、「働く」も「はたらく」もマジでわかんなくて。実体験もしたし、本も読んだし、いろんな人のはなしも聞いたけど、全然わからない。それで見つめてきた、探究してきたんだと思います。

原体験はあれですね、と伊藤さんは高校時代についておはなししてくれた。本屋ではじめてのアルバイトをしたときのこと。当時の時給は750円。本を書棚へ並べ続けて、5時間。5時間分の賃金、3,750円を受け取った。

封筒でお給料をもらったとき、「すごい!」って素直に感じたんです。これでいろいろ買えますしね。世界が広がった感じ。

でも同時に、「え、これだけ?」とも思っちゃって。額が少ないってことじゃないんですけど、わたしがここに拘束されていた時間の対価、って考えると、「これだけ?」って。こんなにたくさんなんだけど、これだけ。

そもそも、拘束されていた時間がお金っていう物質に変わっているのも、よくわからなくて。その仕組みはすごい発明な気もするけど、なんとなく違和感もあるし。この違和感が永遠に言語化できないんですよね。

はじめての「働く」で抱いた、言葉になる前の、なんか変な感じ。その引っ掛かりは、時間の流れとともに消えていくこともある。けれど、伊藤さんの場合は喉に刺さった小骨であり続けた。

これ以上考えてもなにもないから、みんな働いているのかな…とも思ったけど、なんかあるんじゃないかってモヤモヤがずっと消えなくて。「なんじゃこれ」って、ぐちゃぐちゃした想いを引きずりつづけているのかもしれないです。

「はたらく」はネガティブでもポジティブでもない

モヤモヤを持て余した伊藤さんは、いろいろなアルバイトをやってみることに。居酒屋、弁護士事務所、引越し業者、飛び込み営業……などなど。

品川区の港湾で、ひたすらバナナの積み下ろしをする仕事もありましたね。8時間、フォークリフトで運ばれてくるバナナを、知らない外国人たちと、ひたすらベルトコンベアに乗せる。

「生まれてきて、これやる意味ある?」って感じたり。そうかと思えば、法律事務所の人たちからは「やりたくてやっている」雰囲気を感じたり。

新卒で入所した社会保険労務士事務所で、100名を超える経営者に出会い、多様な業種、多様な働き方に触れることができた点も大きかったですね。

いろんな「働く」に触れながら、ずっとぐるぐる考えていた気がします

本屋のアルバイトで感じた違和感。それを見つめて、多くの業種や雇用形態を経験し、多くの人のおはなしを聞き、「働く」について考えていく。それでも捕まえられない違和感。次第に、伊藤さんを飲み込みはじめる。転職先の二社目。働けなくなった。

もうダメ、って笑。まさに、労働の「働」でしたね。業務が細分化されていて、やった仕事がどうなっていくかとかがわからなかった。効率重視の仕組みだから、仕方ないんですけど。

「働く」ことへの意味付けができなくて、ダウンしてしまいました。

無意味を自覚したときの虚無感は、恐ろしい。それを受け入れるのも、気付かない振りをするのも苦しいことで。その先では、自分が消えていく。

「働く」も「はたらく」も苦しいんですよ。でも「働く」の苦しさは、その先になにもないっていうかね。昨日のガムみたいな。いくら噛んでも味がしなくて、忍耐力合戦でしかない。

「はたらく」の苦しさは、スルメっぽいんです。苦しんでいるうちに、味わいが出てくる。

ここには、伊藤さんが書いていた<「はたらく」≒「いきる」>の手がかりが浮かんでいる気がする。その人っぽさが滲んでいる「はたらく」。

江戸時代での「はたらく」ってもっと適当だったみたいなんですよ。例えば、住んでいる長屋の主人に子どもが生まれたから、そのお祝いの場に駆けつけて、バーっと盛り上げていたら、その主人がお金をくれた、みたいな。

ゆるくて、誰でもなんでもつくれちゃう。だから、その人っぽくなる。そんな感覚で、その人オリジナルの「はたらく」が増えたらいいな、って思っています。

「働く」への違和感を持ち、一度飲み込まれ、「はたらく」を考えるようになった伊藤さんは、いまどんな感覚ではたらいているんだろう。

うーん……なんていうかな、ニュートラルになっているかもしれないですね。ネガティブにもポジティブにも振れていなくて、メトロノームのまんなか。色付けがない感じかな。そのときどきで、好きな色を塗って遊んでいる。

だから、本当に「いきる」ってことなんでしょうね。苦しみもあれば、楽しみもあるし。いろんな移り変わりがそこにある。

キャリアという言葉の語源は、ラテン語のcarrariaなんだそう。これは荷馬車や四輪の荷車の通り道、轍を意味する。つまりは、振り返ったときに後ろに伸びている足跡。生きてきた跡。

そう考えると、「はたらく」≒「いきる」という伊藤さんの考えもスッと理解できる。楽しいだけの「いきる」なんてない。喜怒哀楽を抱き、いろんな波にゆらゆらしながら、移ろっていくもの。

「はたらく」が、表現の世界になっていく感覚もありますね。「働く」はスキルを活かすって感じですけど、この射程がびよーーーんって広がれば、その人の感性を活かした表現活動になると思うんです。

最近はそんなイメージかも。わたしも、そういう活動に移行していますね。まったくお金になってないけど笑。

伊藤さんのつくった短歌集

スキルを活かす「働く」だけではなく、その人の感性を活かす「はたらく」へ。それは、その人として「いきる」ということ。

感性を活かした表現活動と聞くと、なんだか仰々しい印象だけれど、「なんかいいな」や「ちょっと気になる」を手放さないくらいの、さりげない感覚なのかもしれない。

「はたらく」も「いきる」も、さりげないこと、なのかな。

苦しみは変わらずとも、苦しがり方は移ろう。

風に吹かれながら、互いのはなしを重ねていく。そのなかで改めて、とろ火で大切にしていきたい「その人を“その人”たらしめるドロっとしたもの」が話題にあがった。

伊藤さんからは、そのドロっとしたものを感じる。それは、「働く」への違和感があって、じゃあそれをどうするのかをひたすら考え、試行錯誤しては「ダメかも……」となって、それでも見て見ぬ振りはできなくて、という一連の流れから生まれたものな気がする。

きっと劇的に変わるものじゃなく、うじゃうじゃもがいているうちに、いつのまにか浮かび上がっていたもの。

まさにまさに。なにかの局面でガラッと変わったわけじゃない。じわじわじわじわ。パキッとわかれた色を塗るんじゃなくて、淡いものが広がっていく感覚ですよね。

そうやって少しずつ動いていくからこそ、その人の人となりが出てくるんだと思います。

……その渦中はえらい苦しいんですけどね。適度に酔っ払った方が、幸せではありますよ。

そうなんだよな。もがくのは、しんどい。試行錯誤を重ねているということは、たくさんの失望にも出会っているということで。「こうしてみたけどダメだった」「あぁ、これもしんどいのか」と、ともすれば沼にはまっていってしまう。

じわじわとした変化は、その速度ゆえに人となりが滲むかもしれない。けれど同時に、その速度ゆえに劇的な救いはない。

伊藤さんのように、自分のつまづきを探究したとしても、出会うのは「わからない」ばかり。

「働く」については、本当にいろいろ調べていたんです。日本の労働観の歴史、海外との比較、宗教ではどう言ってるんだろう、哲学では、社会学では……って。あげくは、なんでかわかんないけど水道のしくみとか調べてました笑。

当時は、現状理解ができていないと思っていたから、世界がどう成り立っているのかを知れば、この違和感についてもわかるかなって。でも、あらゆるものを調べても、わからんかった。

それがしんどいんですよね。答えがあるって前提で、なにかわかるんじゃないかって動いているのに、答えはないから。

答えを探しては、落胆する。答えにすがろうとしては、絶望する。その繰り返し。だったら……と思うけど、なにごとにも答えはないんだよな、と最初っから達観することもできなくて。

苦しいからもがく。もがいても苦しい。もがかないのも苦しい。

苦しみは、苦しみのまま抱えつづけるしかない。じゃあ、それを大切にしつづけた先にはなにが待っているんだろう。

苦しんだ先かぁ……なにかがあったというより、一周回った感じかな。結局いるところは一緒なんですけど、見え方が違うというか、苦しがり方が違うというか。苦しみを味わおうとする余裕がある。

以前、友達が螺旋階段を例にあげてはなしてくれたことがある。

螺旋階段を登っている人を上から見ると、同じ場所をぐるぐるしている。でも、その人は階段を登っているのだから、実際にいる場所は変わっている。

同じように、「またこのしんどさなのか」ってなったとしても、きっと前回とは違う位置にいるんだよ、と。何度も何度もしんどさとは出会うかもしれないけど、同じことを繰り返しているわけじゃないんだよ、と。

登った先にはなにもなくても、苦しみを抱えつづけるために、登りつづける。自分の苦しみを大切にするのは、決して停滞じゃない。

“その人”が滲み出たものを味わい尽くしたい

伊藤さんのなかでも、苦しみへの眼差しは移ろっていった。

当時の苦しみは、意味付けが大きな問題で。社会的な価値観もあれば、個人的な価値観もあったんですけど、そのどれかに現状の「働く」を当てはめようとしていたんです。当然ですけどね。

でも、それってどこか無理があって。苦しい状態が続いていました。だったら、その意味付けのスタンスをやめようと。

外側の価値観はもちろん、内側もいったんいいや、って。いろんなことに意味付けをしない状態、価値観っていう言葉になる前の状態、ようわからん状態のまま扱ってみようとしたんです。

それがさっき言ったニュートラルって感覚かな。意味付けもしないし、特定の価値観をラベリングもしない。そうなると、どうでもよくなるんです。良いか悪いかわかんないまま、「こういうことあるんだ」って純粋に味わえる感じになったかも。

この言葉を聞いて、納得したことがある。今回の取材に限らず、いろいろと伊藤さんとおはなししてきたけれど、どことなく捉えきれない感覚を抱いてきた。それはきっと、伊藤さんが固定化されていないから、揺らいでいるからなんだと思う。

そういえば、伊藤さんは散歩が好きと言っていた。歩いて、世界と出会って、そのときどきで心に浮かぶものを味わう。なんだかとっても似合う。

散歩するように、揺らいでいる。偏りはなく、ニュートラル。なのに、そこには“伊藤さん”が表れていて。それがとても面白い。

その“伊藤さん”がなんなのか、ってはなしもありますけどね笑。でも、わたしも「その人である必要がなんとなく匂う」のが好きです。わかる。

とはいえ、そこに作為的なものを感じるとウッってなっちゃうかも。なんか苦手。

ロジカルに出すんじゃなくて、「出ちゃった」って感じかな。出そうと頑張るんじゃなくて、出ちゃっていた。それって、いきていることを味わっている人のような気がするんですよ。そういう人が好き。

「そっちに行く人は苦しいんですけど」と、伊藤さんは笑っている。苦しみを苦しみのまま抱きながら、でも苦しがってはいない気がした。

そんな姿を羨ましいと思う僕はきっと、絶賛苦しがり中。そうおはなしすると、少しふざけて「それは、いい時期をお過ごしで」と返してくれた。

潜れば潜るほどしんどいけど、それをふまえたいまは、より味わい深い香りになっているなって。だから、当時の自分には「安心して苦しんでください」って言いたいんですよね。もちろん、そう思えないのは知ってるけど。

いろんな人がね、いろんな経験をしているから。それが滲み出た「はたらく」というか、「いきる」というか。そういうのが好きだし、味わい尽くしたい、応援したい。

わからないけど、いきている。

安心して苦しむ。それは、とても難しい。でも、誰かの肩を借りながら苦しむことができれば、絶望の向こう側に行けるかもしれない。

わたしの場合、ひとりで内側を掘っていってたんです。友人、家族にも言わず。それはね、エグい。

やっぱり、人との出会いは大きいですよ。わたしも、結局はそれで少しずつ。例えば、接骨院のおばちゃんね。悩みをつらつらはなしていたら、そのおばちゃんが「伊藤さん、この雨に意味あります?」って言ってきて。

仙人みたいなおばちゃんでしょ笑。そこで「あれ?意味って、ないのか?」ってなったの、めちゃくちゃ覚えてます。

要所要所で、知らない角度からのジャブを浴びている感覚なんですよね。後々に効いてくる。リアルにいる人と関わるって大事。

以前、“出会う”について文章を書いたことがある。「人と出会うことで、生きている感覚を取り戻していった気がする」という友人の語りを受けて、“出会う”が広げる影響を考えていた。

インタビュー活動をしている友人は、「取材を通して、その人の輪郭にさわれたと思えるから、つづけているのかもなぁ」と言っていた。出会うと近い感覚だと思う。

“出会う”と“さわる”。どちらも、自分だけでは成立し得ない。僕が誰かに出会うとき、その誰かも僕と出会っているはずで。僕が誰かの輪郭にさわれたとき、その誰かは僕の体温を感じているはずで。

双方向性を実感できたとき、僕らは「生きている感覚」を見出すのかもしれない。

対話について学び、「対話」という言葉を禁じてみようと思った2日間のこと。

伊藤さんが言う“出会う”も、近しい感覚だと思う。物理的な出会うではなく、精神的な“出会う”。

苦しみ続けていると、自分の存在が霧消しそうになる感覚を抱くことがある。「命を絶とう」という重い決断ではなく、ふわぁっと消えていってもおかしくないな、という感覚。

誰かとの“出会い”は、その浮かび上がりをつなぎ留めてくれる。哲学者の鷲田清一さんは『<ひと>の現象学』で、こう記している。

いまじぶんがここにいるという、存在の重しは、なによりもじぶんとは別の存在との降りることをゆるさぬ関係、やむにやまれぬ関係、あるいはともに何かを作っていくという関係のなかに生まれるものであろう。

苦しみながら誰かと出会い、手を引っ張られながら試行錯誤を繰り返し、なんとか歩きつづける。その繰り返しで、いつのまにか“その人”が出ちゃっていた、いつのまにか「いきる」になっていた……という流れがあるだけなのかもしれない。

救われる瞬間なんてものはなく、ただ流れつづけるだけ。

ずっと「はたらく」を悩んできましたけど、結局は「なんでここにいるの」とか「いきるってなんなの」とか、そういうことを考えたかったんでしょうね。

禅に「大道無門」って言葉があって。スポーツでも勉強でも芸術でも、どんな門をくぐったとしても、最後に行き着くのは「どういきるか」っていう。

わたしは無宗教ですけど、たしかにそうだなと思うんです。「はたらく」をどうにかしようとしてきたのは、いきているであろうわたし、わたしがここにいる感じを、どう扱えばいいのかと向き合いたかった。

存在の重し。いきている感覚。いまじぶんがここにいる感じ。苦しんでいる人は、それらに触れたくてもがいているんだろう。

でも、近づけば消えゆく蜃気楼のようなもので。触れようとしても触れられない。それでも、触れようとしないなら、立ち現れないものでもあって。

まとめると、なにがわかったんでしょうね。

伊藤さんが笑いながら投げかけてくれた。わかったことなんて、なにもないんだろうし、これからもないんだろうし、でも、わかろうとはしていたいし。

「全部に意味なんてないんだ」と放り出しもせず、それでいて、明確な答えにすがろうともせず。安心して苦しみながら、じわじわじわじわ、“その人”が滲んできたらいいな。僕も“僕”を滲ませていきたいな。滲ませていけるかな。

(取材・執筆・撮影:安久都智史 編集:安久都花菜)