生きる価値を問われたら、自信を持って“わからない”と言う。

生まれたことと、死にゆくことと、…

こちらの記事にも書いたように、先日「生きる価値とはなにか」を問いに掲げた対話の場を開きました。

この問い自体にいたるまで、主催の三人で何度も言葉を重ねたこと。「生きる価値」を考えながら過ごした日々。参加者のみなさんから、さまざまな視点で光をあててもらったこと。すべて、僕を揺らがせた時間でした。

これからも揺らぎつづけるため、軌跡を記してみようと思います。

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そもそも、なんで「生きる価値」を問おうとしたのか。それはきっと、心がざわざわする単語だから、です。僕は、なんでいつか死ぬのに生きるんだろう、と思いつづけています。その過程で、「生きる意味」「生きる理由」「生きる価値」などを考えることもしばしば。

こうして並べてみると、少しずつ印象が違う。微妙なニュアンスなものの、そこには大切な差異があります。

そして、「生きる価値」という言葉を口にしたり耳にしたりすると、心の表面が波立ってしまう。ぱっと浮かぶのは、2016年のやまゆり園事件でした。「生きる価値がない」という視線を他者に向ける恐ろしさ。そして、その視線が自分に全くないのかと言われると、言葉につまってしまうこと。

心の調子が悪いとき、僕は自分に向けて「生きる価値」を問うてしまいます。「そんなんで生きる価値があるのか」と。幸い、まだ自分にしか向けていません。けれど、その価値観を内包しているという事実が、ここにはある。いつどこで、他者に向けてしまうかなんてわからない。

「生きる価値」を中心に、いろんな僕がいる。そのすべてに触れたくて、この問いにたどり着いたのかもしれません。

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対話の場で印象に残っているのは、そもそも「生きる」に「価値」がくっついていること自体に違和感がある、というおはなしでした。

前述の「意味」や「理由」と違って、「価値」は他者が見いだせてしまうものです。役に立つかどうか、というモノサシを「生きる」にあてがってしまうことが、すでにおかしい。

他者の「生きる価値」を値踏みするとき、それは自分をあたかも神様かのように、超越的な立場に置いています。相手を見下している。いのちを有益/無益で測っている。

「だから、その視点自体を問い直すと良いと思うんです。お前生きる価値ないんじゃない、ともし言われたら、じゃああなたはあるんですか、って返してみるとか」

「生きる価値」という言葉自体にメスを入れていく。よく言われることですが、<ある/ない>と問われると、どちらかが正解な気がしてしまいます。そうじゃなく、前提を崩していく。

この前提を崩す方向性について、そっか…!と膝を打ったのは、「生きる価値を問われたら、自信を持って“わからない”って言えばいい」というおはなしでした。

そりゃあ、わからないですよね。生きる価値なんて。そっか。

僕が自身に向けて「生きる価値ないんじゃない?」と言ってしまうときは、「だから、価値ある人にならなければ」と強張ってしまうことがほとんど。でも、土俵から降りてしまえばいい。

たしかに、経済的な価値や関係性的な価値の有無はある。けれど、それらを「生きる」に紐づけてしまうのは、短絡的すぎる。

だから自信を持って、わからないと言う。心の深くに届いたおはなしでした。

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会のなかでは思考が追いつかなかったんですが、いま僕が最も揺らいでいるのは、「生きていること自体に価値がある」という感覚についてです。

「生きる価値がある/ないがわかれるんじゃなくて、生きていることそのものに価値が宿っていると思うんです」

生きているだけで丸儲け、という言葉も広く知られている。どんな命も尊い。存在の全肯定。

僕は、この感覚に同意しながらも、それでいいんだっけ、となってしまう。生きていくのが怖いときが、僕にはあるから。

平井堅の『ノンフィクション』という歌に、こんな歌詞があります。

惰性で見てたテレビ消すみたいに
生きることを時々やめたくなる

強い願望としてではない、ふっとした欲。ろうそくの火が息で消えるような。具体的で重く暗い絶望があるのではなく、果てしなく広がる虚無に溶けていく感覚。その感覚を見据えながら生きていくのが、僕はとても怖い。

もしかしたら、この怖さから逃げるために「生きる価値」を自分に見出そうとしているのかもしれません。

でも、ややこしいことに、この虚無感が心地よいときもあるんです。生きていることに価値はある。それと同時に、虚無が待っているにすぎないのだから、生きていることに価値はないとも思う。

「生きていること自体に価値がある」という言い回しは、<ある/ない>の土俵に連れて行くものでもある気がします。この土俵では、歌詞のような「生きることを時々やめたくなる」ことを否定してしまう。

いや、でも否定したい自分もいる。一方で、僕なんかには想像できない辛さ・苦しさも存在する。それを前にして、「生きているだけで価値がある」なんて言えない。

後日、友人に勧めてもらった安楽死に関するドキュメンタリーを視聴しました。「生きることをやめる」という選択が、そこにはある。でもそれは、その方が生き抜くためにとった選択。他人がどうこう言う権利はないと思う。

結局、わからない、のかもしれません。生きていること自体に価値がある、とかではなく、生まれて生きて死んでいくという事実が、ただそこにあるだけ。それを測るモノサシなんて、僕たちは持っていない。

生まれて、生きて、死んでいく。何十億年も繰り返された営みを前に、ちっぽけな僕たちはただ圧倒されるしかない。

「生きる価値」に揺らいだことで、「“いのち”と呼ぶような途方もなさを見据えつづけるためには?を考えたいんだよなぁ…」に改めてたどり着けた大切な機会になりました。

参加して言葉を重ねてくださった&受け止めてくださった皆さん、本当にありがとうございました。