
この世に生きるものが、なぜ、このように在るのかを知りたいのです。
上橋菜穂子『獣の奏者』
生き物であれ、命なきものであれ、この世に在るものが、なぜ、そのように在るのか、自分は不思議でならない。
人生で最も好きな小説『獣の奏者』に出てくる一節。僕はこの作品によって象られてきた、と言えてしまうくらい大切な小説。
この世に在るものが、なぜそのように在るのか。
小学3年生の夕暮れ。リビングで過ごしていて、ふと気付いた事実。人は、みんな死ぬ。僕も友達も兄も母も父も。みんな死ぬ。怖くて、台所にいる母のもとへ駆け寄った。
「僕もお母さんもお父さんもお兄ちゃんも、いつか死んじゃうの?」
そう言って泣いた日から、生きる意味を考えてしまう。
生きる意味はないのかもしれない。けれど、死後の世界を、生前の世界を知っている人はいない。だったら、生きる意味はあるのかもしれない。どちらかなんてわからない。
「わからないなら楽しく生きりゃいいじゃん」と言っていた人もいた。それでも、気になってしまう。ずっと、ずっと気になってきた。
ときに、不思議さではなく恐怖が勝ってしまうことがある。自分の存在が偶然の産物でしかない、と認識すると、浮かんで消えていってしまいそうな感覚になる。
いのちのちっぽけさに耐えられなくて、救われたくて、縋ってしまう。意味を探している。すぐに補給できるような意味。
本当は、その偶然性に呆然とするだけでいいのに。「この世に在るものが、なぜ、そのように在るのか」は、心地よくて怖い。
意味に縋りついて、「これなら楽になれる」と寄りかかっては、何度も転んできた。
知っている。「本当は、その偶然性に呆然とするだけでいい」と自然に書いていたよう、知っている。僕は、心地よさと恐怖を抱き合わせないといけない。

ここに在る偶然性に呆然としていくため、いろいろな人の“死生観”をたずね歩くことをはじめてみようと思います。
死生にまつわる対話の場を開いている友人が言っていました。「生きるも死ぬもわかりっこない。だから、誰しもが同じ土俵で対話できる」と。
この時間で、僕はなにを感じるのでしょうか。誰もがわかりっこないことを前にして、誰かとおろおろすることができたのなら。その先では、偶然性を少しだけはみだせるのかもしれません。
【この世に在るものが、なぜ、そのように在るのか–死生観をたずね歩く–】
みなさんの“死生観”を聞かせてもらい、簡単な文章にまとめて書き残していく活動です。文章は、すべて匿名で公開予定。
死生観と言われると身構えてしまうかもしれませんが、おはなししながら浮かんできたものを見つめていくので、形となっている思想がなくても大丈夫です。
この時間は、まず「子どものころ、“死”についてどう思っていましたか?」という投げかけからはじめます。
糸の端っこから、少しずつ、少しずつたどっていけたら嬉しいです。
もしおはなしを聞かせてくださる方がいらっしゃったら、下記のフォームからご連絡いただけますと幸いです。
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