
※この記事は、とろ火の火守り あくつと、とろ火を面白がってくれている岸本さんとの往復書簡です。今回は一往復目の、僕から岸本さんへのお返事。
岸本さんから僕への一通目のお手紙はこちらです。

岸本さんへ
12月も半ばを過ぎると、急に気温が下がりましたね。岸本さんにとって、佐久の冬ははじめてのはず。凍てつく冷たさ、どう感じているでしょうか。雪はあまり降らない代わりに、深く冷え込みますから。逆手に取って、いろんな暖を楽しんでいきましょう。
…と先輩移住者の顔をしてみましたが、この寒さに慣れてなんていなくて。すでに寒さに震えています。1,2月の冷え込みを想像しては、怖くて震えてもいます。散歩が好きなんですけど、風が強い日はもう歩きたくないなぁ。心まで冷え込まないよう、気をつけていきたいところです。
さて。一通目のお手紙、ありがとうございます。それもそうですが、そもそも往復書簡を提案してくれて、ありがとうございます。この文通がはじまった経緯は、すでに岸本さんが書いてくれましたが、なかなかないと思うんですよね。「とろ火」という、ちょっとわかりにくい僕の活動を面白がってくれるのに加えて、「往復書簡してみたい」とお誘いしてくれるなんて。お誘いもらったとき、物好きな人もいるもんだ、と嬉しさでにやつきながら、お返事を打っていた記憶。
岸本さんもあげていた『急に具合が悪くなる』を含め、僕も往復書簡をまとめた書籍をいくつか読んだことありますが、自分でやったことはありません。でも、互いが互いを引っ張って、深く沈んでいく様は、読んでいて胸が熱くなるんですよね。ただひたすらに楽しみです。
お手紙をやり取りする。なんだかしっとりしちゃいますね。手触り感があります。この往復書簡はネット上でのやりとりなので、物質としては存在しないんですけど、「あぁ、これは僕に宛てられた文章なんだなぁ」と思うと、冷えた手足に血が巡っていく気がする。
お手紙のなかで、岸本さんは、「自分のことを理解してくれていた信頼感と、まだ接して数ヶ月なのに理解したのかという悔しさがあった」と正直に書いてくれましたね。僕も、心のなかを正直に記してみると、「いろいろ話しているけど、岸本さんがどんな人なのか全然わかんねえ…!」と思っています。
たしかに、「こういうことに興味あるんだなぁ」とか「あんなことを考えてるんだなぁ」とか、いくつかの要素には触れていますが、それで“岸本さん”という人間を組み立てあげられるわけもなく。むしろ、数個のピースを知ったからこそ、「え、これはどこに位置するの…?」と混乱している感覚。
だから、この往復書簡で岸本さんをもっと理解したい…となったら滑らかなんですけど、そうじゃないんですよね。うーん。なので、「誰かを理解する」について、まずは綴ってみようと思います。
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誰かを理解するって、どういうことなんでしょう。理解するには、なにかしらの材料が必要になります。その人の言葉だったり、態度だったり、つくったものだったり。目や耳で感じられるもので、その人を理解しようとするはずです。雰囲気もありますけど、それも五感で得た情報の統合な気がしますし。でもそれらって、生モノの情念や観念の情報量を減じたものにしかなり得ない。言葉は、誰かがつくったものに過ぎません。いくら研ぎ澄ましても、内側に漂うものを、そっくりそのまま伝えることはできません。
じゃあ、仮に技術が進歩して、もしくは人類が突然変異して、テレパシーを習得したとしたら…? それでその人を理解したと言っていいのでしょうか。なんだか違う気がします。たしかに、いまこの瞬間の思考や感情は理解できたかもしれませんが、その人はその人が生きてきた年月分の思考と感情でできあがっている。いまこの瞬間だけでは、その人を理解したとは言えません。
そう思うと、誰かといくら関わりあっても、その人の切り取った部分にしか触れられないんですね。大切な存在を、丸ごと理解したいとどれだけ願ったとしても、それは叶えられない。
お手紙のなかで、僕にとっての人ってどういう存在なのか、という質問を投げかけてくれました。それに答えるとしたら、「わかりあえない存在」になるのかもしれません。
この感覚は、岸本さんが書いていた「疎」に近いのかな。言葉を借りると、「別のもの」という捉え方に通ずる気がします。
でも、なんだろう。僕は、その「疎」を前提とするからこそ、「親」を求められるとも思っているんですよね。
異なる他者どうしは、わかりあえない。それは、だいぶ前から実感していたことでした。友人だってそう、夫婦だってそう、親子だってそう。わかりあうことはできない。
でも、わかりあうことを諦めるのは違うとも感じています。ややこしいですけど、人と関わるときには「わかりあえないと知っていながら、それでもわかりあいたいと願う姿勢」こそが肝なんじゃないか。この“それでも”に、目の前の人を想う体温が乗っている気がする。
僕の友人に、誰かと話していて、わかった振りをしない人がいます。話すといつも、「あぁ、この人は他者に真摯なんだな」と感じる。その真っ直ぐな視線は、背筋を伸ばしてくれるし、心地好くもあるんですよね。不確かな自分という存在が、確かに在ることを実感できるから、なのかも。
そして、そういう場においては、なんだか自分と相手がひとつの場に溶けあう感覚もあって。絶対的な「疎」からはじまっているのに、「親」を感じられる。けれど、やっぱりわかりあえはしない。
岸本さんにとって、人は「疎」でも「親」でもあって、そこに矛盾を感じていると書いていましたね。でも、僕にとっては、その両方を兼ね備える存在こそが、人なのかもしれません。
社会学者のゲオルク・ジンメルという人が、<結合>と<分離>を論じているのですが、そのふたつは同じ行為の側面に過ぎないと書き記しています。結合するには、分離していないといけないし、分離するには、結合していないといけない。このアンビバレンツ=物事の両義性は、複雑怪奇な世界、および人間を捉える際に大切なんじゃないか…と、僕は半ば確信的に思っています。
ここに繋がりそうなものとして、「無分別」もありますね。鈴木大拙も書いていましたが、わかるって「分ける」なんだよなぁと。だったら、わかりあわないことで、ひとつであり続けることができる。そんな可能性があるのかもしれません。これは、鈴木大拙館にも行かれた岸本さんの方が詳しいと思いますが!(僕も行きたいなぁ)
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つらつらと書いていたら、「疎」と「親」の関連について、もうひとつ印象的なことを思い出しました。
先ほど、「わかりあえないと知っていながら、それでもわかりあいたいと願う姿勢が肝なのではないか」と書いたんですが、この感覚がちょうど揺らいでいまして。
それは、友人から「無関心と紙一重の寛容さ」の話を聞いたから。ほっておく優しさもあるのかな、どうなんだろう、と友人に問いかけられて以来、僕の頭はぐわんぐわんしています。
踏み込まないし、放っておくし、好き嫌いも考えない。そんな距離があるからこそ、その人との関係が心地好い。たしかに、そういう側面もありますよね。僕は、「丸ごとで関係しあうこと」に妄信に近い願望を持っていましたが、丸ごとって、無防備でもありますから。それだけを求めるのは、ある種、破滅的でもある気がしています。
他者との境界線を全くなくすのは暴力的だし、かといって、線を明確に引きすぎるのも絶対に違う。鬼滅の刃の隙の糸みたいに、「この人とのちょうどいい線はこれだ!」と見えたら楽なんですけどね。
僕にとって、人は「わかりあえない存在」と書きましたが、もう少し紐解くと、「わかりあえないから面白いし、面白いから繋がりたいし、繋がりたいから怖くもあるし、怖くもあるから関わりたくない存在」なのかもしれません。ふむ。なにかを言っているようで、なにも言っていない気がする。
結局のところ、矛盾だらけですね。明確なものを差し出せないことに歯痒さを感じながらも、世界も人間もそういうもんだよなぁ、とも思います。
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とはいえ、「よくわかんないよね!」で終わらせるのは思考停止と同じ…というか、個人的に癪でもあって。なので、人間について、僕がいま考えてみたいものを置き土産にしてみますね。
それは「寂しさ」についてです。
夕焼けをボゥっと見るが好きで。燃えるような空に、少しずつ闇が忍び寄る。あのとき、心のなかには「寂しさ」が浮かんでいます。でも、なんだか気持ちいいんですよね。世界と自分の距離が近づいているというか。世界へ溶けだす感覚がある。
一方で、誰かと関わりあったときに、蔑ろにされたな…と感じたとき。言葉をいくら交わしても、平行線をひたすらたどったとき。心のなかには「寂しさ」が浮かんでいます。でも、このときは相手との距離を感じているんですよね。溶けあうなんて、もっての他。あぁ、遠いなぁ…とため息をついてしまう。
ここにも、<結合>と<分離>が隠れている。最近それに気付いて、「寂しさ」への関心が高まっていました。
前にちらっとお話した気がしますが、僕は「大切な誰かが想いに蓋をして生きている姿を見ると、寂しさを感じる」という性質も持っています。これは<結合>でも<分離>でもなさそうですが。
あとは、単純に僕は寂しがりです。人見知りですが、寂しがり。
いろいろ考えていると、僕の根幹には「寂しさ」がキーワードとして潜んでいるように思えたんですよね。そして、直感的にですが、人間という存在の土台にも太く結びついている気がしています。
寂しさ。小さな子も「寂しかった」と言えるよう、僕たちにとってかなり原初的な感情。それを掘ったら、なにが出てくるんだろう…というわけで、ひとまず、直球的な質問を投げて終わってみようと思います。
岸本さんが、「寂しさ」を抱くのはどんなときですか。
お返事、お待ちしています。
ふぅ…と息を吐いて筆を置いたら、いつの間にか12/24の夜でした。ということは、このお手紙が届くのは25日の朝でしょうかね。気持ちだけですが、リボンを結んで、このお手紙を投函します。メリークリスマス。
安久都 智史
プロフィール
安久都 智史
1995年生まれ。悩み、考え、書を読み、語り合う企み「とろ火」の火守り。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に興味があります。普段は、文章を書いたり、コワーキングスペースの受付に座ったり、農家さんのお手伝いをしたり。どう生きのびて、どう生きていくのか、ひたすらに迷い中です。22年11月に佐久市へ移住。妻とお子がだいすき。
https://note.com/sa_akutsu
岸本 直樹
1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。20年「あなたとパートナーの性についての分析 rebed β版」をリリース。21年 東芝エネルギーシステムズを退職し、活動に専念。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。性科学・家族心理学を勉強中。愛知県出身、23年春に現在の妻と川崎から長野県佐久市に移住。