
※この記事は、とろ火の火守り あくつと、とろ火を面白がってくれている岸本さんとの往復書簡です。今回は2往復目の、僕から岸本さんへのお返事。
岸本さんから僕へのお手紙はこちらです。

岸本さんへ
相変わらず寒い日々が続いていますね。このお手紙は、こたつに入りながら書いています。全館空調キャンペーンに惹かれつつ、僕(&妻)は暖房が苦手で…。もこもこに厚着して、こたつのなかで丸くなる日々を過ごしています。
こたつって、“ぬくもり”という言葉が似合いますよね。床に近いからなのか、自然に人との距離が近くなるからなのか、はたまた昔の記憶なのか…どちらにしても、心がほどけていく感覚を持つ家具だよなぁと。
ほどけるのとは逆に、寒いと身も心も縮こまってしまう…といろんな人が言っていますが、それはどうなんでしょう。たしかに沖縄など温暖な地域の方が、開放的な人が多いイメージはありますけど、偏見と言われたらそれまでですし。
書いていて思い出しましたが、大学で受けた講義のなかで、国民性に関するジョークが紹介されたことがありました。沈没船ジョーク、とやらですね。「客船が沈没しかかっていて、救命ボートが足りない。助かるかわからないけど、乗客の多くを海に飛び込ませないといけない。各国の人を飛び込ませるには、なんて言ったらいいのか?」というもの。
ジョークなので出典もなにもないとは思いますが、改めて調べてみると、こんな風に言われているみたいです。
アメリカ人に対して・・・「飛び込めばヒーローになれますよ」
イタリア人に対して・・・「海で美女が泳いでいますよ」
フランス人に対して・・・「決して海には飛び込まないで下さい」
イギリス人に対して・・・「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」
ドイツ人に対して・・・「規則ですので海に飛び込んでください」
日本人に対して・・・「みなさんはもう飛び込みましたよ!!」
当時もそうだったんですが、これを見たときに“納得できてしまう自分”が面白くもあり、なんだか少し悲しくもあり。僕はいまのところ経験がないですが、「日本人ってこうだよね!」と言われたら、ちょっと、いや、かなりイラッとすると思うんです。もっと狭い実体験だと、「〜〜大学の人って、いつも政治の話してるんでしょ?」と言われたこともありますね。めちゃくちゃイラッとしました笑。
こういう視点って、きっと暴力的なんでしょう。個々人の差異を見つめずに、あるのかどうかもわからない大きな文脈に投げ込んでしまう。それは、大袈裟かもしれませんが、どこかで生の冒涜に繋がってしまう気がします。
…と書きつつ、僕だって偏見にまみれていて。分類してカテゴライズしては、わかった気になってしまう。SEKAI NO OWARIの『Habit』という曲にも、こんな歌詞がありますね。(最近、お子がはまっている曲なんです。この曲に合わせて揺らすとニコニコちゃんに。かわいい。)
君たちったら何でもかんでも 分類 区別 ジャンル分けしたがる
(中略)
君らは分類しないとどうにも落ち着かない
この“分類したくなる感覚”で思い出したのが、ミシェル・フーコーの『性の歴史』です。といっても、それ自体を読んだわけではなく、『寝ながら学べる構造主義』という解説書で紹介されていた文章に触れただけですが。
性の話ということで、釈迦に説法かもしれませんが、僕自身の整理のために思い出した部分を語らせてください。
フーコーは『性の歴史』において、医学の誕生により、性的逸脱が「罪」の対象から「治療」の対象に移ったと述べています。その先では、徹底的な調査が行われ、膨大な数の性的逸脱が科学の用語で言説化&カテゴリー化されていく。
この流れに対して、フーコーはこう書いています。
これら無数の倒錯的性行動を排除する?そんなはずがない。そうではなくて、目的は、これらの性行動のすべてをカタログ化し、一覧的に位置づけることなのだ。重要なのは、あらゆる性行動を無秩序に列挙しているように見せかけながら、実はそれらを現実のうちに整序し、個人のうちに統合することなのだ。
『性の歴史』
カタログ化。ここに、フーコーは「権力の存在」を見て取っていたと、『寝ながら学べる構造主義』の著者:内田樹さんは書いているんです。
「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向性」のことなのです。
『寝ながら学べる構造主義』
権力、か…。無自覚的に発揮されていた“分類したくなる感覚”は、どこかで権力と結びついている。だからこそ、大袈裟かも…と書きはしましたが、生の冒涜に繋がりうると思ったのかもしれません。あらゆるものが、全体図のなかに埋め込まれ、理解可能なものに位置づけられてしまう。それは、とても寂しいことではないでしょうか。
さて。だいぶ遠回りして、“寂しさ”へと戻ってきました。前回のお手紙で、僕が岸本さんに投げかけた言葉です。
岸本さんは、僕にとっての寂しさが、“<熱>から<冷>に移行していくときの「温度センサー」のような働き”をしていると書いてくれましたね。
<熱>が好きな自分がいるから、寂しさが生まれている。でも、<冷>そのものが含む寂しさは、それ自体として味わっている。僕の感じている寂しさには、そんな2つの側面がある。僕の思考に、死角から光を当ててもらった感覚で、嬉しかったです。
そして、岸本さんにとっての寂しさ。もらったお手紙には、「寂しさを表現することは弱さの表出」であり、そして岸本さん自身に「弱さを良しとしない価値観」がある、と書かれていましたね。「善人の面の皮をかぶったライオン」とも。
気を悪くさせてしまう可能性があるのを承知で書くんですが、お手紙を読んだとき、ぱっと「強めの表現を使われているなぁ」と感じたんです。それは、“弱さ”をどう扱うかにまごついている感覚でもある気がします。もしかしたら、ですが。
岸本さんは、カウンセリングもやられていますよね。勝手な想像ですが、カウンセリングなどで他者の傷つきに向き合うときには、自分自身の傷つきは横に置く必要があると思うんです。それって、他者に向ける視線と、自己に向ける視線が重ならなくなる、ということに繋がりうる。
そのズレが、対人支援においては、ある種の不誠実になってしまう…と感じていて、強めの表現が出てきたのかなと感じました。全然違う想像だったらすみません。
そのうえで話を進めてみるんですが、僕個人は誰かが葛藤を抱えている姿にこそ、信頼を覚えると思っています。
「こうだ!」と力強く示された方が、傷や不安を抱えている存在は安心する。「これが救いなんだ」と信じれば、もう迷わなくて済みますから。僕の大好きなバンド、BUMP OF CHICKENの『飴玉の唄』という曲は、こんな歌詞ではじまります。
僕は君を 信じたから もう裏切られることはない
だってもし裏切られても それが解らないから
信じることの盲目さを、端的に表したお気に入りの歌詞です。もちろん、その盲目さが愛と結びついたときは、また別の魅力が生まれるんですが。
迷わないことで生まれる救いって、救いなんだろうか。僕は“否”と思っていますが、それすら迷っているので、なんとも歯切れの悪い文章を書き連ねることしかできません。
でも、その姿こそが、人間として生きるってことなのでは、と最近は感じています。綺麗だけじゃなく、凸凹を垣間見るほうが愛おしい。
…あれ。流れるように、自分語りへと移ってしまいました。すみません。こうして言葉を重ねていると、互いの迷いが引きずり出される感覚がありますね。一緒に袋小路へと迷い込めて、嬉しい限りです。
先ほど、「綺麗だけじゃなく、凸凹を垣間見るほうが愛おしい」と書きました。この感覚、岸本さんから投げかけられた、「作る」にも太く繋がっている気がしています。
と、つらつら語る前に。岸本さんは「作る」と書いていますよね。でも、Webサイトの話などは「創る」の方がしっくりくる感覚があります。お父さんのお風呂は、「創る」かなぁ…。いや、どちらかというと、「手づくり」って感じかもしれません。
岸本さんからの投げかけを読んで、はじめに浮かんだのは、こういった「つくる」の種類でした。「創る」も「手づくり」も、日本語としては同じ「つくる」に端を発しているのに、受け取るニュアンスはだいぶ違う。
「創る」と書くと、創作・創造性、といった単語があるように、少し洗練されたものだったり、趣向を凝らしたものだったりを想像するかもしれません。一方の「手づくり」は、こたつじゃないですが、ぬくもりがある。距離の近さを感じますね。
このように二分してみましたが、それで「つくる」をわかった気になってはいけませんよね。それは、分類しないと落ち着かないからであって、結局は「つくる」の冒涜に繋がってしまいますから。
じゃあ、改めて「つくる」ってなんなんだろう。
頭に浮かんだのは、醤油、でした。というのも、最近、醤油を手づくりしたんです。大豆と麹を仕込んだのは、去年の3月。それを絞って、醤油として出来上がったのが、今年の1月。約1年間かけて、手づくり醤油の完成です。
はじめて醤油をつくりましたが、めちゃくちゃに大変でした。まず、大豆と麹を仕込むとき、3日間ほど夜通し温度管理をしないといけない(この作業については、醤油のお師匠さんにお願いしたのですが)。そのあとも、一週間毎日かきまぜ、日当たりに気を配り、水が入らないように配慮し、再びかきまぜ…と、とても手間がかかります。
言い方は悪いですが、醤油なんてスーパーでぺっとお金を払えば、すぐに手に入るものです。わざわざつくらなくたっていい。それを、1年間も手間暇かけて仕込むだなんて。
とは言うものの、安久都家は今年も醤油づくりをしようと思っています。かけなくてもいい手間暇を、それでもかける。そこに「つくる」を考える手がかりがあるはずです。
醤油を絞るとき、一緒に参加していた人が、仕込んだ大豆のことを「我が子」と呼んでいました。言わずもがな、この比喩では愛おしさが表現されています。
サン=テグジュペリの『星の王子さま』にも、似たような表現がありましたね。必死にお世話をしてきた赤いバラが、大量に咲いている風景を見て、決して珍しくない“ただのバラ”をお世話してきたんだ…と落胆する星の王子さまに向かって、キツネはこう言います。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」
(中略)
「人間たちは、こういう真理を忘れてしまった」キツネは言った。「でも、きみは忘れちゃいけない。きみは、なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ。きみは、きみのバラに、責任がある……」
『星の王子さま』)
「つくる」って、時間を費やすことだと思うんです。特に、商品化が進んでいるいまの社会では。お金を払えば、なんでもすぐに手に入る。手に入ってしまう。とても便利で、物質的にとても豊かです。
でも、それこそ“寂しさ”を覚えてしまう自分もいます。手元には、ある意味で無機質なものばかり。どんなものであろうと誰かがつくったはずなのに、お金を媒介にすると、その体温は断絶されてしまいやすい。その流れに関しては、消費の在り方に問題があると思いますが。
一方、手づくりの醤油が食卓にあるくらしは、なかなかに新鮮で。うどんや卵かけごはんにかけるだけで、特別な食事へと様変わりします。その特別さも、非日常ではなく、あくまでも日常に埋め込まれたもの。
岸本さんが引用していた、西田幾多郎大先生の言葉が身に染みてきます。
物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。
ものに時間を費やせば、そのもの自体が特別な存在になっていく。そして、その特別さは、愛おしさとなって自らに返ってくる。「つくる」は、愛おしさを生む営みなのではないか。
最近、『民藝のインティマシー 「いとおしさ」をデザインする』という本を見つけたことに影響されたのかもしれません。民藝にも、「つくる」における核が潜んでそうですね。もっと深めてみたいな。
この愛おしさ、時間と並んで、人間味も考慮しないといけない気がします。前段に書いた、「綺麗だけじゃなく、凸凹を垣間見るほうが愛おしい」は、まさにそれですね。
この人間味がどの層で出ているのかによって、「創る」にもなるし「手づくり」にもなるのではないか。
例えば、僕が今回つくった手づくり醤油。これは、間違っても「創る」ではありません。趣向は凝らしてないですからね。でも、職人さんが丹精こめて仕込んだ醤油は「創る」という表現に値すると思います。
とはいえ、「手づくり」と「創る」に優劣はないはずです。どちらも、つくり手の色がでてくる営み。その色が軽やかさに寄っていたら「手づくり」になるし、深いこだわりに寄っていたら「創る」になる気がしています。
ものを透かしたとき、つくり手が見えるから愛おしさが生まれる。そして、つくり手の色が現れるのは、時間を費やすからこそ。個人にべったりと紐づかざるをえないのが、「つくる」なのではないか…と現段階で思っています。つくるとは生きること、とまで言えるのかもしれません。
このような視点で岸本さんのお手紙にあった「つくることへの憧れと苦手意識」を眺めてみると、対象が「良くつくること」になっている気がします。おそらく、ですけど。
なんでもすぐに手に入るということは、自分でつくる必要性が急激に薄まっているということでもあります。上の世代の方に子ども時代の話を聞くと、きまって「なにもなかったから、自分で工夫して遊んでたなぁ」と言うように。自分の色を介在させずとも、世界が回るようになった。
それは、ありふれた行為だったはずの「つくる」を特別なものに位置づけ、わざわざ「つくる」人は、「良くつくる」人に限られていきます。そしてさらに、「つくる」が特別視されていく。
だからこそ、憧れと苦手意識があるのではないか…と勝手な妄想を繰り広げてみました。的外れじゃないと良いのですが。
ここまで書いてみたよう、僕は「つくる」において重要なのが、「愛おしさ」だと考えました。でも、なにかを愛おしく思う心ってなんなのでしょう。愛でもなく好きでもなく、愛おしい。心の奥の方にスゥっと入り込んで、ジュワっと広がるような。
岸本さんには、またしても抽象的なボールを投げてみようと思います。愛おしさって、なんなのでしょう。
この投げかけが、ラグビーボールのよう、想像もしない方向に跳ねていくことを楽しみにしています。
冒頭に「寒い日が続く」と書きましたが、佐久の人々にとって、今年の冬は暖かいそう。冷たい風に身を震わせている僕は、まだ信州の人間ではないみたいです。異邦者が土地に根付いていくには、この身体感覚も大切になるんでしょうね。
春の芽吹きを心待ちにしながら、信州の冬も味わっていきましょう。
2024/1/28
安久都 智史
1995年生まれ。悩み、考え、書を読み、語り合う企み「とろ火」の火守り。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に興味があります。普段は、文章を書いたり、コワーキングスペースの受付に座ったり、農家さんのお手伝いをしたり。どう生きのびて、どう生きていくのか、ひたすらに迷い中です。22年11月に佐久市へ移住。妻とお子がだいすき。
https://twitter.com/as_milanista岸本 直樹
1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。20年「あなたとパートナーの性についての分析 rebed β版」をリリース。21年 東芝エネルギーシステムズを退職し、活動に専念。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。性科学・家族心理学を勉強中。愛知県出身、23年春に現在の妻と川崎から長野県佐久市に移住。