力まずに、ちゃんと悔しがる日々へ。

火守りのつれづれ

先週から一週間ほど、妻の実家&僕の実家に帰っていた。この文章を書いているのは、滞在最終日。明日には、妻とお子と3人で自宅へ戻る。

それは非日常のおわり、日常のはじまりを意味する。今日の午前中、疲れが溜まっていたのか、とても眠かったので2時間ほどお昼寝をさせてもらった。その寝起きに、急に日常を想像してしまって。身体も心も強張り、動かすたびにギギギギギと鈍い音がこすれるみたいな感覚になった。

日常では、僕はかっこつけているんだろうな。それは力んでいるとも言えて。脱力した一週間だったからか、力みが強張りとして現れる。

「ありのままの自分でいよう」みたいな言葉を聞くことがある。「もっと肩の力を抜いて、楽に生きよう」とか。おかしいよねぇ、と思ってしまう。だって、ありのままの自分だったり、肩の力を抜いた自分だったりの方がしんどいじゃないですか。そんな軽やかなものじゃない。

そのままの自分ということは、自分の好きなところだけじゃなく、嫌いなところとも一緒に生きるということで。痛みを伴わざるを得ないこと。僕は、その痛みを感じたくなくて、ついついかっこつける、力んでしまう。傷つきたくない。

でも、自らへの視線は誤魔化せない。口から出る言葉が、書き残す言葉が、薄っぺらいことは誰よりも知っているし、それしか出てこない自分を悔しいと思っていることも知っている。

あぁ、そっか。悔しいのかもしれないなぁ。なんとなくの興味関心が見えてきているからこそ、至らなさばかりが目につくようにもなって。でも、それを正面から見据えたくなくて、そっぽ向いている。悔しがれていないのかも。

「それでもなんとか…!」と思う部分と、「見ないようにしちゃおう」と思う部分が拮抗しているのだろう。だから、そのままでいてもしんどいし、力んでいてもしんどい。困ったもんですね。

きっと、前者のしんどさに苛まれる時間からは、なにか大切なものが浮かび上がってくる。後者は、回復時にはもちろん必要になる。

僕は、ここ数年ずっと回復の時間を過ごしてきたのかも。そろそろ前者に移りたい、と感じているのかも。

悔しがれていない、と書いたのは、悔しがりたいから。そのためには、結構な体力が必要な気がする。惨めさを向き合うことでもあるし、「それでも」という胆力も求められる。

悔しがるための体力は回復したのだろうか。

力まない自分で日常を過ごし、しんどさを真っ直ぐに見据えて、ちゃんと悔しがっていきたいな。

…ふぅ、自宅へ返る前に浮上できてよかった。