最後に美術館へ行ったのはいつだろう…となるくらいには、芸術・アートというものは遠い存在でした。
「なんでこんな絵が有名なの…?」とか「これが作品…?」とか。なんだかよくわからないもの。けれど、高尚なものな気がして。わからない僕は美的感覚に欠けているのでは…と思って、遠ざけていたのかも。
そんな遠い距離感を変えてみたいな、と考え出したのは最近。それは、“複雑さ”だったり“複層性”に興味関心が生まれたから。アートに触れてきた友だちが増えたから、というのも大きいですね。
その友だちのひとりが、「強い文脈からの離脱が必要である、というのがアート・芸術のメッセージかも」と言っていて。
前述の「この絵の良さがわからない僕は、美的感覚に欠けているのでは…」という暗い気持ちは、「この絵はこう見るのが正解」という一本道があってはじめて成り立ちます。一本道、つまりは強い文脈。
この強さは、とろ火として掲げている「その人を“その人”たらしめるドロっとしたもの」が覆い隠してしまうのではないか。
なにかの絵や作品に触れたとき、心に浮かび上がったものがなんであれ、それが「正解/不正解」とジャッジされた途端、滲んでいたはずの“その人”は後ずさりしてしまいます。
でもアート・芸術とは、いろんな捉え方が可能なものなんだそう。つまりは、創る側にも鑑賞する側にも、“その人”が現れうるもの。そこにあるのは、弱い文脈です。
弱いから、傷つきやすい。けれど、アート・芸術の名の下では、その弱さは価値になる気がする。
…といういきさつで、アート・芸術に興味関心が向いている今日このごろ。そして、そこにある“複雑さ”や“複層性”を考えてみたいな、と思って手に取ったのが、川内有緒さんの本、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』でした。
<版元より>
見えない人と見るからこそ、見えてくる!
全盲の白鳥建二さんとアート作品を鑑賞することにより、
浮かびあがってくる社会や人間の真実、アートの力。
「白鳥さんと作品を見るとほんとに楽しいよ!」
友人マイティの一言で、「全盲の美術鑑賞者」とアートを巡るというユニークな旅が始まった。白鳥さんや友人たちと絵画や仏像、現代美術を前に会話をしていると、新しい世界の扉がどんどん開き、それまで見えていなかったことが見えてきた。
視覚や記憶の不思議、アートの意味、生きること、障害を持つこと、一緒にいること。
そこに白鳥さんの人生、美術鑑賞をする理由などが織り込まれ、壮大で温かい人間の物語が紡がれていく。
見えない人とアートを見る旅は私たちをどこに連れていってくれるのか。
軽やかで明るい筆致の文章で、美術館めぐりの追体験を楽しみながら、社会を考え、人間を考え、自分自身を見つめ直すことができる、まったく新しいノンフィクション!
上記の概要のとおり、この本は「全盲の美術鑑賞者」白鳥さんと美術館を回った様子が描かれています。絵や彫刻を前にして、晴眼者が“見えているもの”を語っていく。
ここでさっそく、複雑さが浮かび上がります。
例えば、美術館のスタッフさんととある絵を鑑賞するなかで、そのスタッフさんが「湖が広がっていて…あれ、ちょっと待って。これ湖じゃなくて原っぱかもしれません」と気づく場面。何度も何度も見ているはずのスタッフさんでさえも、勘違いしていたこと・見えていなかったことがある。
ここで大切なのは、「この絵は原っぱを描いていた」という正解めいたものにたどり着いたこと…ではなく、共に鑑賞することで新しい文脈が生まれたこと、だと思います。
きっと、この文脈は作者が決めたひとつではなく、受け手の数だけ生まれ得る。『CONTEXT DESIGN』(著:渡邉康太郎)という本では、この新しい生成を「文脈を誤読する」と表現しています。
作者や社会が持つ強い文脈を、誤読することで受け手の“その人”が滲んでくる。正解があるとされる世界では、この滲みを促すのは困難な気がしますが、芸術・アートの世界では当たり前の営みなのかも。
そしてこの本が面白いのは、鑑賞を通して浮かび上がる“あらゆるものが持つ複雑さ”に著者の川内さんが翻弄されていることです。
詳細は省きますが、川内さんはとある作品を鑑賞したことで、「半分忘れていたあの日の記憶は、その後も消えない火のようにくすぶり続け」ることになります。(p227) ここで揺れ動く“火”がイメージとして出てくるのは示唆的ですね。
きっとですが、複雑さに触れると別の複雑さが誘発されるんだと思うんです。「こうかもしれないし、ああかもしれない」という分岐に立ち会えば、それぞれの先の自分が見える。でも、どちらも自分です。
いま生きている世界や社会、自分は、他の世界や社会、自分でもあり得たもの。そして、その“他”が“いま”とはっきり区別されるわけでもない。
そんな複雑さに翻弄されている川内さんが、この本には現れているんです。芸術やアートの鑑賞からはじまった揺らぎが、自己や世界へとつながっていく。
理科・物理の実験で、共振(共鳴)の実験があったことを思い出します。ある物体の振動が伝わり、その他の物体も揺れはじめる。
思えば、この本に出てくる人たちはみな、揺らいでいる人なのかもしれません。「わからないのがいいいんだよ」と語る白鳥さんは、まさにそう。互いが互いの揺らぎを支えている。そして、読者である僕もゆらゆらと。
素直に、そういう関係性だったり環境っていいな、と思います。揺らぎは葛藤にもなるからしんどいけれど、だからこそ弱い文脈の発露も促してくれる。
とろ火としてやっていきたいのは、僕自身がゆらゆらしながら、共振を生んでいくことなのかもなぁ…とイメージが一歩進んだ読書でした。
対話型鑑賞に参加してみたいし、主催もしてみたいな。