おずおずと、社会に向き合ってみる

火守りのつれづれ

先日、『おずおずダイアログ』というイベントに参加した。

おずおずダイアログ
おずおずダイアログとは、永井玲衣らによる政治や社会のことについて、手のひらサイズの問いを立てて、ここならいてもいいと思える場を一緒につくりながら、おずおずと語り出してみる対話の場... powered by Peatix : More than a ticket.

「憲法」「原発」「権力」など、テーマがあらかじめ設定されている場は、なんだか関心度が高かったり、詳しそうなひとが多そうで行きづらい。でも政治や社会のことを、知識も得ながら考えてみたい。そもそもを考える問いから、テーマにまつわるもやもやについても話してみたい。わからないことについて、何がわからないのかわかりたい。

そんな自分の経験から、あらたな「おずおずダイアログ」をはじめます。

以前の僕だったら、絶対に参加していないイベント。事実、こういった政治や社会がテーマに掲げられている場には、顔を出したことがなかった。

そんな僕が、文字通りおずおずと参加してみた。考えてみて、聞いてみて、発言してみた。自分にとって、それは結構大きな変化。

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大学時代の友人で、とっても尊敬している人がいる。その人は、こう括っちゃうとよくない気もするけれど、社会的な運動をさらりとやっている人だった。

それは軽いというわけではなくて。無理や虚栄心がなく、社会や世界を考えている姿に気持ちよさを感じるような。話を聞いたり、SNSの投稿を見ていても、その人の足でしっかり歩いている。

身近な人のなかで、誰よりもかっこいいと思っているかもしれない。本人に言ったことはないけれど。

そう、かっこいい。尊敬している。その気持ちの裏には、「僕にはできないな」が常に転がっていた。

大学時代は、狭い世界で生きていて、社会や世界との繋がりなんて感じていなかったから。会社で働きはじめてからは、ままならない自分のことで精一杯だったから。

遠い世界は遠いままだった。おかしな出来事を知っても、怒っていいような報道を聞いても、感情の揺らぎは一瞬でおさまってしまう。

おかしさに麻痺しているのか、それとも無力感なのか。「ひどいことがあるもんや…」とちらりと思うだけ。数分後には忘れている。

そして、良くも悪くも、そんな自分におぞましさを感じていた。見ない振りをしていることには自覚的で。その事実は確実に僕をえぐってくる。だから、自ら社会的な情報に触れにいくことはしなかった。見ない振りすらできない状況。自己防衛でしかない。

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ここ数ヶ月で、自己防衛がほんの少しだけ弱まってきた気がする。お子が大きくなってきたからなのか、読んだ本の影響なのか、別の友人の語りのおかげなのか。「そっか、社会や世界は僕と離れて存在しているわけじゃないのか」と思うことが増えた。

特に、いま友人たちと読み進めているティム・インゴルドの『生きていること』の影響は大きかった。彼のいう“メッシュワーク”という概念は、個人を環境と結び合わせる。

本来の人間の移動とは、地を這うかたつむりのように、雪原をソリで移動するイヌイットのように、周囲の環境に対してそのつどに呼応しながら、開かれたありかたで世界と向きあい、予期せぬ他者と出会い、またどこかへとその歩みを続ける存在であった。

(中略)

その軌跡は「メッシュワークmeshwork」のような線となる。

(引用:私たちが「メッシュワーク」である理由
メッシュワークを冠する合同会社の方が書いたnoteです)

メッシュワークは、網目構造を指す言葉。そこからインゴルドは、さまざまな人・モノ・自然…ercが網目になって、ひとつの織り物になるイメージを記している。

つまりは、どんな環境や社会、世界であっても、自分と離れた場所には存在し得ないということ。それは薄い線かもしれないけれど、結び目を介して繋がっている。

世界との繋がり。それを最も感じたのは、お子の存在がわかったときだった。

いましか生きていない僕には知り得ない、何百、何千年もの歴史がなだれ込んでくる感覚。父親、母親の顔が浮かぶ。僕は、“生きてきた”んじゃなくて、“生かされてきた”んだなと呆然とした。感謝とかではなく、もっと大きなものに触れた感覚、途方もないものと重なった感覚。
https://note.com/sa_akutsu/n/nb0488e83158d

僕は僕だけで生まれたのではなく、父親・母親の存在と繋がっている。そして両親は、それぞれの父親・母親と繋がっている。彼ら彼女らは、当時の自然や街などと繋がりながら生きていた。無数に広がっていく。もちろん事実としては知っていたけれど、それをはじめて痛感した瞬間。

この言葉に成り得ない感覚に、インゴルドのメッシュワークという概念は肉薄している。

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自己防衛が少し弱まって、それでももぞもぞしていたとき、「おずおずダイアログ」の主催者のひとり、永井玲衣さんの文章を読んだ。

わたしたちには、この状況に対して、できることばかりある。あまりにできることばかりなので、立ち尽くしてしまうほどだ。10代のころは、できることなんてないと思っていた。逆である。できることばかりすぎて、見えなかっただけだった。

できることばかり、なのだろうか。そうか、できることはたくさんあるのか。

冒頭の友人のことを思い出した。かっこいい姿を見ていたからこそ、「強くない自分にはできないな」と感じていたことに気付いた。それは「弱い自分は別に考えなくていいや」に転化していた。

でも、自分で精一杯“にもかかわらず”社会・世界と向き合うことで、なにかが見えるのかもしれない。

そして、おずおずとイベントへと参加することにした。イベントの最後、永井さんがこんなことを言っていた。

ぜひ今日の問いや内容を、他の方ともおはなししてみてください。そして、みなさんも対話の場を開いてみてください。

これがひとつの“できること”なのか。できることなんてないと思っていたけれど、ようやくひとつ現れてくれた。隠れてしまう前に掴んでみよう。ゆっくり、そろりと。

勢いで題字だけつくってみました。まずは、友人を誘ってやってみます。