※この記事は、とろ火の火守り あくつと、とろ火を面白がってくれている岸本さんとの往復書簡です。今回は4往復目の、僕から岸本さんへのお返事。
岸本さんから僕へのお手紙はこちらです。
岸本さんへ
酷暑がひたひたと近づいてくるこの季節、いかがお過ごしでしょうか。梅雨があけたら、針のように刺してくる日差しが降り注ぐんですよね。雨が降ると涼しいまま1日が終わりますが、なんだか世界が準備体操をしているような感覚になります。世界ちゃんが手首をぶらぶらし、首を回して脱力している。そしてヨーイドンの合図で真夏のはじまりはじまり。濃い色に押しつぶされそうになる日々まで、あとちょっとですね。
岸本さんといろいろおはなしするようになったのは、昨年の9月からだったと記憶しています。仲間の農家さんのお手伝いで、黒豆をひたすらに脱穀しながら3時間ほどおはなししたのが最初でした。なので、真夏の時間を共有するのははじめてですね。今年も農家さんのお手伝いをする者どうし。畑でも言葉を交わしながら過ごしましょう。
さて。お返事ありがとうございます。じっくり読みました。正直、前回は暴れ球を投げてしまった自覚があったんです。整えることもできたけど、「これを受け取ってもらえるのかしら…」とおそるおそる、でも岸本さんなら…という甘えとも呼べる信頼を抱きしめて、そのまま投げてしまいました。すみません。
BUMP OF CHICKENが初期に出した『キャッチボール』という曲には、こんな歌詞があります。
「とれるわけないだろう!」呆れながらも 必死に追う
「とれなくてもいい」と君は微笑んでた
(中略)
「とれるわけないだろう!」呆れながらも 必死にとる
「とれないと思った」と君は驚いてた
(中略)
とれるわけない球も 呆れながらも 必死に追う
「とれなくてもいい」と微笑んで欲しくない
この曲の「君」には、影のある寂しさがにじんでいる気がします。ほほえみながら、自分の投げたボールを「とれなくてもいい」と伝える。キャッチボールをコミュニケーションに重ねると、この態度はやわらかい拒絶とも言える。
それでも、必死にとってくれる人がいる。ほほえんでほしくないと、必死に追ってくれる人がいる。それはなんて幸せなことなんだろう、と思うんです。自分の言動に応答しようとしてくれる人がいる。たったそれだけで、人は歩みを止めずにいられる。
今回僕が投げてしまった暴れ球を、岸本さんは捉えて投げ返してくれました。その事実が持つ意味は、僕にとってかなり大きいんです。
お手紙の最後に、岸本さんはこう書いてくれていました。
さて、安久都さんの直感「この世界すべてに愛おしさや責任を感じられる可能性があるのではないか」に近づくことができたでのでしょうか?むしろ訊くべきはこうですね。安久都さんが一旦この言葉を当てはめる元になった「生」の直感に、近づくことができたのでしょうか?
(ハイライトはあくつ追加)
この世界すべてへの愛おしさや責任を抱く可能性。議論をすっ飛ばして仮にそれが可能だとしても、おそらくはじまりはたったひとつの糸なのではないか。
誰かが自分に応答してくれる。自分が誰かに応答しようとしている。その事実を一身で実感できたとき、世界の見え方が変わるのかもしれない。そこには、紛うことない「生」がある気がしてなりません。
それは、「この世界すべてに愛おしさや責任を感じられる可能性があるのではないか」に自ら答えていく道になるのでしょうか。岸本さんのお手紙を目印にして、改めて歩いてみようと思います。
前回の手紙で僕が話題に出した“存在しないとされる側の世界”に対して、岸本さんは信仰にまつわるおはなしを重ねてくれました。
“存在しないとされる側の世界”を知覚することは、“こちら側の世界”で行動するための準備なのではないか。信仰を抱いている人にとってその知覚は全体重を掛けられるくらいの足場になり、その反作用で“こちら側の世界”を歩いていけるのではないか。
なるほど…と唸りながら読んでいて浮かんだのは、小説などのフィクションが持つ力でした。
僕は小学生時代から小説を読み漁ってきました。中高時代は、本屋で数冊購入して読み耽る、というのが期末テストが終わったご褒美。
最も好きな本としてあげる本が二冊あるんですが、そのうちのひとつ、恩田陸さんの『麦の海に沈む果実』の良さを語るとき、僕はいつもこう言っています。
世界観に全身浸ってしまうほどの引力がある。小説が好きで良かった、といままでで一番強く感じた作品なんです。
小説に没頭しているときって、僕の感覚としては“あちら側の世界”に入っていると思うんです。ここではないどこかにいる。『麦の海に沈む果実』は、その“あちら側の世界”が一番色濃く広がった小説でした。
このような至福な読書体験は僕にとって、詩人の茨木のり子さんがいうところの「ばさばさに乾いていく心に水をやる」こと。僕が僕として生きていくのに、欠かしてはいけないもの。
もちろん、小説を読んでいる僕は“こちら側の世界”にいます。“あちら側”は物理的になんて存在していない。それでも、その世界を知覚できる。できてしまう。
大事なのは、あくまでも知覚に留まっている、ということなのかもしれません。“あちら側の世界”を知覚しているということは、“こちら側の世界”に座していることを意味します。こちら側にいながら、あちら側がにじんでいるという二重性。
このような二重性がもつ意味を、別の分野で語っていた本を最近読みました。矢野智司さんの『意味が躍動する生とは何か 遊ぶ子どもの人間学』という本です。
遊んでいる子どもが持つみずみずしさを論じている本で、遊びには二重性が内包されていると語られています。
例えばおままごとに夢中になっている子たちが、泥団子をおにぎりとして出している。このとき、みんな泥団子はおにぎりじゃないと認識しています。そうじゃないと、泥団子を食べちゃいますからね。でも、おままごとに夢中な子たちにとって、泥団子はおにぎりなんです。
泥団子はおにぎりでありながらも、おにぎりではない。ここに二重性が生まれます。そして、その二重性は世界の奥行きとして立ち現れる。
固定したコンテクストに閉ざされることなく、また複数のコンテクストに直面しても、混乱することもなく、子どもは遊びをとおして、複数のコンテクストを自由に軽やかに横断することによって、世界の奥行きを垣間見ることになる。土ではなく団子、団子ではなく土、土でもあり団子でも在る、この世界の奥行きからさまざまな意味が生まれてくるのだ。
(前掲書.p48 ハイライトはあくつ追加)
ここで僕の心に深く跡を残したのが、世界の奥行き、という言い回しでした。5年ほど前に鬱病を患ったとき、世界は文字通りのっぺりしたものになっていたことを覚えています。
この“のっぺり”を分解すると、世界をたったひとつのモノサシで見てしまっている状態、と言えるかもしれません。当時は諸々の悩みによって、「できる/できない」のモノサシが僕のなかで幅を利かせていました。意味の有無も「できる/できない」で決まっていく。
当時は、と書きましたが、心療内科に通院しなくなって2年以上経ったいまでも、このモノサシはかなり影響力を持っています。低気圧や疲れで調子が悪いと、僕の世界はいまでも単一文脈になってしまう。
だからこそ、僕は二重性に惹かれているのかもしれません、信仰も小説も遊びも、“こちら側”にいながらにして“あちら側”を知覚している。世界が奥行きを持つ。その心地よさが、岸本さんの言う足がかりになるのではないでしょうか。
奥行きを持つふくよかな世界を、異なる視点で描いた本があります。瓜生崇さんの『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』という本です。
著者の瓜生さんはお寺の住職さんであり、かつてご自身が脱会を経験したことから、脱会支援を行っています。この本のシンプルかつまっすぐなメッセージは、「脱会支援とは迷いに帰らせること」というものです。
何度も言及してきている二重性ですが、カルト宗教においては、全くもって存在していないと言えます。それこそが正しい、自分たちだけが正しい。そこには迷いはありません。
この本で詳細に描かれていますが、著者も含めて、カルト宗教にのめり込んでいく人の多くには、人間の根源的な救済や教えを求める「核」があるそうです。人生の無意味さへの苦しみ。どこにも出口がない。どん底で提示された正しさ。縋りたくなる。寄り掛かりたくなる。そして、迷いを放棄する――
分かれ道があるから、迷うことができるんですよね。ひたすらな一本道で迷うことなんてできません。同じように、一元化された世界だと迷えない。奥行きを持つ世界だから、迷うことができる。
ここでは、二重性は迷いを生むもの、つまりはある種のしんどさをもたらすものだとされています。しかし、先ほど見た『意味が躍動する生とは何か 遊ぶ子どもの人間学』では、さまざまな意味が生まれる積極的な契機として描かれている。
二重性をまなざす視線そのものが二重性を帯びている。そんな複雑な構造がここにはあります。
そんなことを考えていると、世界の途方もなさがぐわぁんと視界いっぱいに広がる感覚になってしまうんです。世界のことなんて、もう全然わからない。こちら側もあちら側も、自分もあなたも、あるのかないのかわからない。
僕の大好きなゲーム、「キングダムハーツシリーズ」の第一作目のオープニングは、こんな言葉からはじまります。
俺には よく 分からないんだ
この世界が、本当に、本物なのか。
そんなの、考えたこともなかった
小学生のときに出会ったこの言葉が、年数を重ねるにつれて深くまで刺さっていく。途方もなさにくらくらして、すべてを投げ出したくなる。実際、無気力状態で過ごしてしまう日々もあります。
でも、そこには「生」がないと思ってきた僕がいるんです。
このお手紙の最初の方で、僕はこう書きました。
誰かが自分に応答してくれる。自分が誰かに応答しようとしている。その事実を一身で実感できたとき、世界の見え方が変わるのかもしれない。そこには、紛うことない「生」がある気がしてなりません。
ここに登場するのは、僕とあなたのみです。BUMP OF CHICKENの歌では、キャッチボールをするふたりだけ。たったそれだけ。そのちっぽけなふたりから、紛うことない「生」が浮かび上がる。世界がどうあるかなんてわからないけれど、僕とあなたがここにいて応答しあっている。
今回も前回も、僕の頭のなかでちらついているのは、「この世界すべてに愛おしさや責任を感じられる可能性があるのではないか」という直感です。
でも、“存在しないとされる側の世界”を捉えようとして、さまざまな二重性に翻弄され迷うしかなくなった僕には、「この世界すべて」を考えることなんてできなくなってしまいました。
代わりに、両手で抱えられるくらいの直感が漂っています。
「目の前のあなたと本気で関わっていくことしか、僕たちはできないのかもしれない」と。
意気込んで出発したら、ぐるりと回って戻ってきてしまった気がします。それでも、なにか違うことを感じるようになったとも思います。見えるものは同じでも、見出すものは違う。ここでも、世界は立体的なのかもしれません。
一周まわって姿を変えた「目の前のあなたと本気で関わっていく」とは、どういうことなのでしょう。またしても、僕の直感を込めて、お手紙を投函しようと思います。
とれなくてもいい、なんてほほえんでいません。とってほしい、投げ返してほしいと思うようになりました。甘えを脱した信頼に近づいているのでしょうか。
こうした変化を並んで味わえているのが、とても嬉しいです。
ではまた、5時半に畑でお会いしましょうね。
2024/6/28 安久都智史
プロフィール
岸本 直樹
1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。20年「あなたとパートナーの性についての分析 rebed β版」をリリース。21年 東芝エネルギーシステムズを退職し、活動に専念。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。性科学・家族心理学を勉強中。愛知県出身、23年春に現在の妻と川崎から長野県佐久市に移住。
あくつさとし_安久都 智史
1995年生まれ。悩み、考え、書を読み、語り合う企み「とろ火」の火守り。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に興味があります。普段は、文章を書いたり、コワーキングスペースの受付に座ったり、農家さんのお手伝いをしたり。どう生きのびて、どう生きていくのか、ひたすらに迷い中です。22年11月に佐久市へ移住。妻とお子がだいすき。