今年の1月から6月までの半年間、友達からお誘いをもらって、ポッドキャストの月イチパーソナリティを担っていました。
ポッドキャストの名前は、あいだの生き方ラジオ。「社会に間の選択肢を創り、一人ひとりの心にゆとりと安心を届ける」をミッションに掲げて活動する、任意団体あわひが放送しています。
あわひをはじめたのが、僕の友達で尊敬もしている同志のにっしーこと、西村征輝さん。過去、ゲストに呼んでもらったこともあったし、こうしてパーソナリティにお誘いもらったのも嬉しかった。
とろ火としてもポッドキャスト配信はしているけれど、仲間の看板を背負う(そんな大げさに捉えなくて大丈夫ですよ、とは言われたものの)というのはまた少し違っていて。
最後の振り返り収録で少しだけ考えてみましたが、この期間で感じたことをもう少し自分に残しておきたくて、書きはじめてみようと思います。
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上記の振り返りでも話したけれど、肩肘張らずにいつもの“安久都智史”として収録に臨んでいた。それでも、あいだの生き方ラジオという文脈が横にあるからか、あわひの根幹に近そうな「待つ」「立ち止まる」などの単語が僕からもゲストからもスムーズに出てきた感覚がある。
もちろん、文脈を意識した人選だったのも大きいとは思う。でも、場の設定自体で話の流れも左右される、という当たり前を実感できたのは面白くて。同一の場だけで“やってみる”を繰り返していても、それには気付けない。
越境学習、という考え方がある。企業人の越境学習を研究している石山恒貴先生は、このように言っている。
越境とは、自分が慣れ親しんだ「ホーム」と、そこから離れた「アウェイ」を行き来すること。
越境して恥ずかしい思いをしたり、苦しい思いをしたりする「混乱するジレンマ」(ジャック・メジローの変容的学習の用語)に直面することでリフレクションが起こります。
そこでアイデンティティの見直しが起こります。これは今までのアイデンティティを否定することではなくて、あくまでも見直すことで、アイデンティティが多元化していくということです。ショックを乗り越えていくことで、自分は「なんで存在しているんだろう」という、引き出しが増えていくんです。
(すべて越境学習によるVUCA時代の企業人材育成から引用)
あいだの生き方ラジオは僕にとってアウェイではないものの、似たことが起こっていたと思う。越境は内省を生む。配信をつづけるなかで、いろいろと感じるものがあった。
そして半年間のパーソナリティを振り返ったとき、僕に芽生えはじめていたものは、「人に本気で向き合えてないなぁ」という感覚だった。
これは今回のパーソナリティをやる前から、薄っすらと、でも確かにずっと漂っている感覚で。インタビューや自分のラジオでも感じながらも、そっと見ない振りしていたもの。
それが、あわひ・あいだの生き方ラジオが持つ文脈によって、無視できない場所にまで引き出されてしまった。あわひについてゲストに説明したり、過去の放送・他のパーソナリティの放送を聴いたりすることで、否が応でも浮かび上がってくる。
思えば半年前、新パーソナリティを発表する場(あいだの生き方ラジオは半年に1回、ファンミーティングをやっているんです)で、「やさしくないから、大丈夫かなと思ってる」みたいな話をした記憶がある。
あのときは、うまくつかまえられなくて「やさしい」という単語を選んだけれど、やさしいの語源が「痩す=やせ細る」であることを考えれば、間違っていなかったかもしれない。
誰かの話を聞かせてもらうとき、身を痩すほどの向き合い方ができていない自覚。なのに、人の生き方に触れることは好きで、インタビュー等をつづけてしまっている後ろめたさ。誰かの大切な話を、自分のために喰らっているおぞましさ。
なんだか、哀しい化け物みたいだなぁ…と思っていたら、ミスチルの『Starting Over』が頭に流れてきた。
肥大したモンスターの頭を隠し持った散弾銃で仕留める
今度こそ躊躇などせずに その引き金を引きたい
あいつの正体は虚栄心? 失敗を恐れる恐怖心?
持ち上げられ浮き足立って膨れ上がった自尊心?
きっと僕は、自分にばかり矢印が向いている。それは、閉じているとも言えることで。せまい場所でうずくまって、外に視線を向けないで、どうやって「人に本気で向き合える」というのか。
この肥大したモンスターを仕留めなければ…と思う僕もいるけれど、おそらくそれでは解決しないんだろうとも気づいている。
桜井さんは、『Starting Over』の二番でこうも歌っている。
追い詰めたモンスターの目の奥に 孤独と純粋さを見付ける
捨てられた子猫みたいに 身体を丸め怯えてる
あぁ このままロープで繋いで飼い慣らしてくことが出来たなら
せまい場所でうずくまっているのは、防衛本能でもある。怯えや恐怖に縮こまって閉じこもっているのは、傷つかないで済むから。モンスターは最初から化け物だったわけではなくて、僕の一部分が大きくなりすぎただけ。それを根こそぎなくしてしまえば、失われるなにかがある。
だから、仕留めるのではなく共存しないといけない。それは飼い慣らすことでも、明け渡すことでもなく、健全に怯えつづけること。
住野よるの『青くて、痛くて、脆い』という小説には、「ちゃんと傷つけ」という言葉がでてくる。なかなかに肥大したモンスターが巣食っている主人公が、自分に投げかける言葉。作品名どおり「うぅ、痛い…」と悶絶しながら読んだ記憶がある。
僕はいつから「ちゃんと傷つく」ことを避けるようになったのだろう。
もちろん、避けるべき傷つきもある。たくさんある。けれど誰かとまっすぐ言葉を重ねあう場面で、傷つきを避けていては、上澄みを飲みあうことしかできない。その奥にある澄んだものに触れたいのに。
それは透明だけれど火傷するかもしれないし、透明だからこそ鋭利なものにもなりうる。
でも、それこそが僕がとろ火として掲げようとしている「その人を“その人”たらしめるドロっとしたもの」だと思う。
このドロっとしたものを他者に開くと、必ず傷つく場面がくる。全ての人が受け入れてくれるわけがないし、そうじゃないから意味がある。
誰かに大切な話をしてもらうって、その傷つく可能性にさらすことだ。なのに僕は、相手にしか可能性を背負ってもらってなかったのかもしれない。
人に本気で向き合うと、ちゃんと傷つくことになる。そうやってついた傷跡を愛おしく思える日は、必ず来ると信じたい。
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ふぅぅっと息をはいて考えてみると、あわひのまわりで出会った人たちは、にっしーさんをはじめとして、なんだかちゃんと傷ついてきた人たちな気がします。だから、尊敬したくなる人が多いのかもしれません。
改めて、半年間のパーソナリティありがとうございました。あわひを応援したい気持ちが、より一層募った期間。
また力にならせてください。これからもよろしくお願いします。
<あわひのHP>
<あいだの生き方ラジオ>
7月から新パーソナリティのおふたりが放送しています。
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