対話について学び、「対話」という言葉を禁じてみようと思った2日間のこと。

火守りのつれづれ

8/17,18の2日間、静岡県は三島で行われた「対話・ファシリテーション塾」に参加した。対話やファシリテーションを実践している人、実践していきたい人が集まり、みんなで学びあう場。

こういった場に参加して、「対話とは?」だったり「人と向き合うって?」だったりを考え、話すのははじめて。妻や友達とは話すけど。全国から集まった初対面の人たちと、言葉を重ねていく体験は、それ自体に学びがあった感覚で。

あの2日間を振り返って、頭や心、身体に残っているものを書き綴ってみる。

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❏旅をして、非日常の場で言葉を重ねること

これがとても良かった。日常の場で悩む、考えることに意味があると、住んでいる地域での活動を思案していたけれど、旅をして、非日常のなかで言葉を重ねる経験は、また違った意味があると感じた。

非日常とは、居心地の悪さも含んでいる。いつもと違う場所、はじめて会う人たち。普段ならするすると出てくる言葉であっても、どこかためらいが滲んでしまう。

言葉を発するときの、ためらい。この空隙には、大事なものが宿っていく。

会のなかでも「場において沈黙とどう向き合うか」というテーマではなした時間があった。そのなかで、「沈黙はなにも起こっていないわけじゃなく、その人のなかでなにかが動いていることもある」という発言を聞いた。

一見、静かな場であっても、それぞれの脳内ではおびただしい言葉が吹き荒れているのかもしれない。

内でうごめくなにか。これは、非日常、正確には、ある種の居心地の悪さによって駆動する気がする。

いつもと違う場所に行き、いつもと違う人たちと会い、そこで言葉を差し出そうとして、まごついてみる時間。

そういう時間をもっとつくっていこうと思う。

❏人と“出会う”ということ

会のなかで「生きている、ってどういう感覚なのか?」について、言葉を重ねる時間があった。いろいろな語りがあったけれど、印象に残っているのは「人と出会うことで、生きている感覚を取り戻していった気がする」というもの。

ここでいう“出会う”は、物理的な出会いではなく、精神的なものも含んでいると思う。

単純な出会いでいえば、僕らは毎日のように誰かと出会っている。仕事の場で名刺交換したり、スーパーで顔見知りに遭遇したり。

けれど、生きている感覚を取り戻させる出会いは、単純なものではない。それこそ、とろ火で掲げているような“ドロっとしたもの”を相手から感じることだろう。

でも、なんでその出会いは生きている感覚につながるんだろう。そのこと自体はとてもわかるのだけれど、なぜ僕のなかで浮かび上がってくるのか、言葉を与えることができていない。

インタビュー活動をしている友人は、「取材を通して、その人の輪郭にさわれたと思えるから、つづけているのかもなぁ」と言っていた。出会うと近い感覚だと思う。

“出会う”と“さわる”。どちらも、自分だけでは成立し得ない。僕が誰かに出会うとき、その誰かも僕と出会っているはずで。僕が誰かの輪郭にさわれたとき、その誰かは僕の体温を感じているはずで。

双方向性を実感できたとき、僕らは「生きている感覚」を見出すのかもしれない。

一方、その双方向性は、容易に暴力的なものにも転じる。精神科医の斎藤環さんが、コロナ禍に書いたnote記事を思い出す。

人と人が出会うとき、それがどれほど平和的な出会いであっても、自我は他者からの侵襲を受け、大なり小なり個的領域が侵される。それを快と感ずるか不快と感ずるかはどうでもよい。「出会う」と言うことはそういうことだし、そこで生じてしまう“不可避の侵襲”を私は「暴力」と呼ぶ。再び確認するが、この暴力はいちがいに「悪」とは言えないし、あらゆる「社会」の起源には間違いなく、こうした根源的暴力が存在する。暴力なくして社会は生まれない。
(引用:人は人と出会うべきなのか

出会いに宿っている、強大な、ときに凶悪な力。両面…というより、時と場合によって表情は変わるということは忘れず、それでも人と“出会う”ということは眼差していきたい。

❏「対話」という言葉を禁じてみること

2日間の会を終えて、なによりも色濃く残っている問いは、「対話と語りあう、ってどういう違いがあるのか?」だった。

僕は、語りあう、という表現をするようにしている。いままでも、とろ火の活動のなかでは、かなり意識的に対話という言い回しはしてこなかった。対話そのものになにかが足りないということではなく、僕が見つめていきたいものに即したとき、少し温度感が違う感覚があったからだ。

けれど、それは直感的なものであり、うまく開いた場に浸透させることはできていない自覚もある。

僕が見つめたい“語りあう”って、なんなのだろう…という問いを抱えながら2日間を過ごしていた。会のなかで膝を打つような発見ができたわけではないけれど、種のようなものは拾えた気がするので、つらつらと書きながら、水をやってみようと思う。

その種は、「対話の対義語ってなんだろう?」についての時間に拾ったもの。

いろいろな話題が出るなかで、とある人が「なんか、対話=いいもの、ってなっている意見ばかりな気がする」とぽつりと発言した。

場の流れ的に、その話題の道へとは進まなかったけれど、僕の頭にはへばりついていた。

ファシリテーションの実践において気をつけていること、をはなしていた別の時間では、「目指す対話って、ファシリテーターによって違っているから、その違いを共有しないと平行線なままな気がする」という発言もあった。

こうして振り返ってみて思うのは、「対話」という言葉が広すぎる文脈を含んでしまっていて、マジックワードのようになっているんだな、ということ。

「対話を大切にしている」だったり、「対話の場を開いている」だったり、「対話が足りていないんだ」だったり。多くの場面で耳にするようになった。

これらの言葉に、うんうん…とうなずいてきた自分がいるのだけれど、立ち止まってみると、それぞれは一体なにを言っているのだろうか。

「対話ってなんだ?」を説明するとき、<会話/議論/対話>と分類しているケースをよく見る。

・会話は、世間話だったり、日常の出来事をはなすこと
・議論は、明確な結論を出すことを目的にしたもの
・対話は、お互いの前提や意見の違いをわかり合おうとするもの

といったような。たしかに、大枠での理解は進む。けれど、ひとりひとりが「対話」という言葉に宿したいものは、よっぽどの繊細さをもって使わない限り、そこには現れ得ない。

先日読んでいた、カウンセラーの信田さよ子さんと、教育学者の上間陽子さんの対談本『言葉を失ったあとで』に、「言葉を禁ずる」というくだりがあった。

信田さんは、来訪者に対して、「自己肯定感」などの言葉を禁ずるとのことで。「別の言葉で言い替えられますか?」と言うことがあるという。それによって、自分の体験にもっともそぐう言葉を探し、考えるようになる。

別時期に読んだ、古田徹也さんの『言葉の魂の哲学』でも、似た話があった。この本で取り上げられているカール・クラウスという作家は、「もしも人類が常套句をもたなければ、人類に武器は無用になるだろうに。」と語っていたらしい。

意識的でも、無意識的でも、常套句に逃げるということは、言葉を自分で選び取る過程を放棄していること。これは思考停止と同じだという。

大げさな…と思うかもしれないが、クラウスがこう語った10年後、プロパガンダで言語統制を進めたナチスが政権を握った。言葉を選び取ることには、責任がある。

「対話」という言葉も同じだな、と強く感じる。前述の「対話の対義語って?」を語るなかで、いろいろなこだわりが透けて見えてきた。なのに、それらをひとつの言葉で指し示していいのだろうか。

少なくとも未熟な僕は、「対話」と表現してしまうと、自分の想いをわかった気になってしまう。

とはいえ、今回の会は「対話」という言葉に惹かれ集まった人がいたからこそ、それぞれの差異が浮き彫りになった。広い言葉を使うことには、そういった意味もある。

だったら、今度は、そこにある差異こそを見つめていかないといけない。

対話について学んで、「対話」という言葉を禁じてみようと思った2日間だった。

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会の最後、参加者ひとりひとりからの言葉に、モヤモヤや逡巡が滲んでいたのが印象に残っている。

「なにかを学びました!」と歯切れよく言うのではなく、それこそ、ためらいながら言葉にしていく。いい時間・空間だったなぁ、と思えたのは、その淀みがあったから。

これから、一緒にまごついていけるような仲間の人たちと出会えて、嬉しい2日間でした。