“創作の生まれる場”ではじめて触れた、多声的な自分。

火守りのつれづれ

以前おしらせした「創作の生まれる場 連画ワークショップ」を、友人のカメラマン/フォトグラファーの林光さんと一緒に、8月26日に開催した。

主催者のひとりではあったけれど、連画を経験するのは僕もはじめてで。途中からは、純粋な参加者として楽しんでいた。

題名にもつけた“創作の生まれる場”。この場のなかで過ごし、さまざま感じたことがあった。それを記してみたい。

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改めて、連画とは連想ゲームのように写真をつないでいく試みのこと。

これは、ワークショップ内でつなげた写真たち。少しぼやかせているが、拡大するとわかるよう、「きゅうりがぶらさがった写真」から「緑のカエルの展示」がつながっていたり、「カラフルな文字が並んだトラック」から「色とりどりの鯉のぼり」がつながっていたり。

写真の構図や色味、はたまた意味など、場に置かれた写真から読み取ったものを、自分が過去に撮った写真に重ねていく。それが「連画」という営み。

ワークショップのなかでは、付箋に書いた絵をつなげていく簡易的な「ポストイット連画」をやったあと、参加者それぞれの写真を連ならせていく「連画」を行った。

実際にワークショップという場に巻き込まれていくなかで、林さんが以前おはなししていたことを思い出していた。

連画の写真を作品って呼びたくなるのは、その写真に意味を見出すからかも。端に映った物体からですら、メッセージを読み取る。正確に言うと、写真を連ねるために、何かを読み取ろうとする。

もしかしたら撮影した人に、そんな思惑はなかったかもしれないけど、誰かが確かに読み取る。そこに思惑や意味が現れるから、作品って呼びたくなるんだよね。

撮影した人さえも気付いていなかった思惑や意味が、いつのまにか現れる。この現象、おはなしを聞いたときから面白いなぁ。と思っていたけれど、その発生の現場にいることの力強さは想像以上だった。

自分が場に出した写真から、思ってもみなかった意味があれよあれよと溢れ出してくる。そして、そこからさらに派生した意味が生まれていく。

みんなでひとつの生き物になったみたいだな、と思った。ひとりひとりの感性はたしかにそこにあるのに、それらが響き合って、なにか大きなうねりが生まれているような。

会の途中、連画の思想について林さんが解説してくれたが、そのなかに「多声的」という単語があった。

この「多声的」について調べるなかで、面白い言い回しを見つけた。

「多声」とは、個々人の差異をそれぞれ自立的なものとして扱いながら、その水平的な持続と垂直的な結合によって、他者の声と融合することなく、呼応関係によって新たな局面を浮かび上がらせる試みをここでは指します。
(引用元:https://k-pac.org/openlab/561/?cn-reloaded=1

自立的なのに、結合している。けれど融合はしておらず、互いに呼応している。バラバラなのに、ひとつになっていて、関係しあっているなのに、それぞれのまま。

今回のワークショップで僕の身体と心に一番残っているのは、この多声的な状態を感じられたことだった。

タイトルにあるよう、連画のなかでは、創作は「生む」ものではなく「生まれる」ものとして捉えられている。そこには、個の感覚の薄れを感じる。

けれど、関係しあうには個々が必要になる。僕がたまに援用する思想だが、社会学者のゲオルク・ジンメルという人が<結合>と<分離>を論じている。彼は、そのふたつは同じ行為の側面に過ぎないと書き記しており、結合するには、分離していないといけないし、分離するには、結合していないといけないと言う。

大学生で出会って以来、このわかったようなわからないような両義性に惹かれてきたのだけれど、連画のなかに巻き込まれたことで、はじめて実感として触れられた気がする。

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感じたことを思い出しながら、つらつら書き進めてみると、最近心に残っている思考・思想たちとの連関があることに気付いた。

ざっと並べると、

・「おのずから」と「みずから」のあわい(竹内整一)
・中動態(國分功一郎)
・コンテクストデザイン(渡邉康太郎)
・メッシュワーク(ティム・インゴルド)
・編集(松永光弘)

などなど。(括弧内は、僕がその思想に出会った書籍の著者)

もちろん、それぞれの思考・思想は完全に重なってはいないのだけれど、並べてみると、それこそ連画のように互いに意味を与えあいはじめる気がしてくる。

林さんは、連画について「巻き込み、巻き込まれないとはじまらない」とおはなししていた。

今回、僕は連画という“創作の生まれる場”に巻き込まれ、新たな意味が浮かび上がってきた。だからこそ、僕からもいろいろなものを巻き込んでいきたい。