岸本と安久都の往復書簡 #5の復

火守りのつれづれ

※この記事は、とろ火の火守り あくつと、とろ火を面白がってくれている岸本さんとの往復書簡です。今回は5往復目の、僕から岸本さんへのお返事。

岸本さんから僕へのお手紙はこちらです。

前回のお手紙を受け取ってから、2ヶ月も経ってしまいました。便りがないのは元気な証拠…と言うものの、決して元気ではない期間もあり。

誰かに向けて言葉をつづるというのは、いい意味でも悪い意味でも、大きなエネルギーを使うんだなとつくづく思います。いや、悪い意味と書くと語弊がありますね。悪いというよりは、人と関わるって大変だな、疲れるなという感覚でしょうか。

そういえば、数年前にうつ病をわずらってから、メールやLINEの返信に体力を使うようになったんです。同じように病気をした経験のある友人も、同じことを言っていました。不思議。

それでも筆をとろうとするのは、前回僕が書いた「目の前のあなたと本気で関わっていく」を欲しているからなのかもしれません。お返事は遅くなってしまいましたが。

僕にとっての往復書簡をつづけてきた目的は、本気で関わっていく修行をするため。そんな暫定解が浮かんできます。

さて。岸本さんは、前回のお手紙の冒頭で、この往復書簡の目的を書いてくれました。

私にとっての目的。それは、安久都さんを媒介することで、まだ知らない自分に会いたい、見て見ぬフリをして素通りしている自分の両肩を掴んで語り掛けたいというものかもしれません。

この感覚、まさに僕が「目の前のあなたと本気で関わっていく」を欲している理由と重なる気がしています。

先日、とある場に参加して「生きている、ってどういう感覚なのか?」について考えていたんですが、友人が「人と出会うことで、生きている感覚を取り戻していった気がする」と言っていたんです。

人と出会う。ここでいう出会うは、物理的なものではなく、精神的なものだと思います。ただの遭遇ではなく、魂が触れ合う、とでも言い表すのでしょうか。

そして僕が思うのは、誰かと本当の意味で出会えたときには、自分とも出会うんじゃないか、正確にいうならば、自分と出会いなおすんじゃないか、ということです。

友人が「人と出会うことで、生きている感覚を取り戻していった気がする」と言っていたのも、さまざまな自分と出会いなおした体験がもたらしたんだと捉えることができます。

思い出したんですが、3年ほど前の僕が「『わたし』と出会いなおしつづける」を人生のテーマに掲げたい、という文章を書いていました。

この世界で「わたし」に意味を持たせたいのなら、「わたし」以外の存在が必要になる。そう、他人との“比較”で、初めて「わたし」が獲得できるのである。

(中略)

ずっと同じ世界に居続けてしまうと、そこで出会う「わたし」も固定化されたものになってしまう。それに耐えられないのだろう。自分の世界が一色になることに。
https://note.com/sa_akutsu/n/n2bc196eca409

岸本さんが書いていた「新たな自分に会いたい、素通りしてきた自分に語り掛けたい」という欲の奥に、どのような根源的な願いがあるかはわかりません。

けれど、岸本さんがご自身と出会いなおすためには、岸本さんと僕が出会わないといけない。きっと。

このお手紙が終われば、残り一往復。僕たちの出会いを祈りながら、文章をしたためてみようと思います。

前回のお手紙で僕が書いた「目の前のあなたと本気で関わっていくことしか、僕たちはできないのかもしれない」という直感を、岸本さんはじっと観察し、紐解き、言葉を重ねてくれましたね。

「安久都さんにとって世界はひたすらに『個』であるほかない、という感覚を持っているのではないか」と、頷いてしまうような文章を読み、背筋が少しひんやりした自分がいます。

ひんやり、と書きました。心があたたかくなったのではなく、背筋がひんやり、と。語弊がないように付け加えると、嬉しい気持ちは多分にあります。僕の言葉から、僕を感じてくれている。岸本さんが向き合ってくれていることに、あたたかさを感じている。

ただ、正直な感覚を言うのならば、そこに岸本さんとの出会いはなかったように思ったんです。僕はどこか観察対象であって、分析されているような。

それは、僕の悪癖が大きく作用しています。

大学時代から仲良くしていて、いろんなはなしをしてきた友人に言われたことがあるんです。「安久都は自分のはなしをしたがるから、気をつけろよ」と。

岸本さんの文章を読んで背筋がひんやりしたのは、僕のこの癖を感じ取ってしまったから。僕の思い過ごしかもしれませんが、いつのまにか僕の言葉を岸本さんが受け取ってくれる、そんな構図になっていた気がしたんです。

これは、岸本さんが普段からカウンセリングをされているから、かもしれません。

その岸本さんの姿勢に無意識体に甘えていたのだと思います。もともと僕は、気がついたらボールを投げる側に行ってしまいがちです。おそらくですが、わかってほしいという欲が強いから。ついつい、自分の思考や実感を言葉にして、投げかけてしまいます。

けれど、それだけだと他者と出会うことなんてできないんですよね。

前段で書いた友人のはなしから、「出会う」について思考をめぐらせていた時期があったんですが、「出会う」ってひとりだとできないんです。当たり前ですが。相手がいて、はじめてできること。

そして、片方だけが「あの人と出会った」と語れるような事象は、決して「出会い」とは呼べない、と思うんです。

対話の場を開く人は、「発言せず、聞いてるだけでもいい」と言うことがあります。哲学対話の場だと、特に多いですね。それにより場における安全性が担保されるので、とても大切な声掛けです。

その一方で、場の人たちは、その聞くに専念していた人と出会えた感覚になるのだろうか、とも思ってしまったんです。

もちろん、場に参加する人の関係性や目的によって、そもそも「出会う」が主眼に置かれていないこともたくさんあります。その人の頭のなかに言葉があふれすぎて聞くことしかできない、というケースもあるので、決して否定したいわけではありません。

ただ、ままならない思考だったとしても、そのままならなさが言葉として口から出てくるまで待つ、言葉として出してもらう、という姿勢にも僕は信頼を感じます。

ドキッとする信頼、ですね。逃げられない、逃げてはいけない。応えないといけない信頼。

バレーボールを描いた漫画『ハイキュー!!』には、こんな場面があります。

とあるアタッカーがブロックに捕まりはじめ、彼がセッターに「自分にトスをあげる回数を減らしてくれ」と言います。けれど、セッターは即却下。そのあとにも、彼にトスをあげる。

そこでアタッカーの彼はこう言いました。

励ましなんかじゃねえ
この脅迫(しんらい)に
応えて見せろ
(『ハイキュー!!』32巻)

脅迫と書いて、信頼と読む。逆もしかりなんでしょうね。信頼は脅迫とも読める。

いままでのはなしに引き寄せると、「自分の言葉で話して欲しい」という要求は、脅迫でもあり信頼でもある、ということ。

そして、僕が感じていた「目の前のあなたと本気で関わる」って、こういうことなんだと思います。その人の言葉を欲すること。信頼でもあり、脅迫にもなり得るものを投げること。いい意味での緊張感が生まれてしまうこと。

それがあってはじめて、僕にとっての「目の前のあなたと本気で関わる」になるんです。

出会いを祈って書くようになった、今回のお手紙。脅迫(しんらい)で終えたいと思います。

岸本さんにとって、「他者と関わる」ことはどういう意味を持ちますか?

人はひとりでは生きていけない、とよく言います。そう考えると、他者と関わる意味を問うのは、生きていく意味を問うことと等しいかもしれません。

往復書簡も、岸本さんにとっては、僕という他者との関わりのひとつだと思います。再度の引用になりますが、この往復書簡の目的を岸本さんはこう捉えていました。

安久都さんを媒介することで、まだ知らない自分に会いたい、見て見ぬフリをして素通りしている自分の両肩を掴んで語り掛けたい

岸本さんは、その先でなにを感じたいのか。それをお聞きさせてください。

これで五往復目のやりとりが終わります。全部で六往復にしよう、と決めてはじめたので、岸本さんから受け取るお手紙は次が最後なんですね。

一緒に作業している畑も、時期の終わりが近づいてきました。これからもつづいていく、けれど終わりもある。不思議な充実感と寂しさ。最後のお手紙、楽しみに待っていますね。

2024/10/3 安久都智史

プロフィール

岸本 直樹 
1981年生まれ。カムウィズ代表。過去パートナーとのセックスレスを経験、試行錯誤するも解消できないまま離別。22年 カムウィズ設立。あたらしい形のセックスレス予防・解消サービスを開発中。理学修士・工学修士・学士(心理学)・認定心理士。愛知県出身、23年春に妻と川崎から長野県佐久市に移住。24年7月 ”書く”オンライン・カウンセリング「夜のカフェテラス」をオープン。

安久都 智史
1995年生まれ。迷いつづけ、出会いなおしつづけようとする活動「とろ火」を開いています。ほんとのはなしを語りあったり、本屋活動/図書室活動をしたり。その人を“その人”たらしめるドロッとした部分に惹かれます。妻とお子がだいすき。