このあいだ友達ふたりにお呼ばれして、お手製のおでんをつっついていたとき、「あくつくんの“絶望する”って、どんな感覚なの?」と聞いてもらった。
過去の二度の休職経験や、いま現在もある身体と心が麻痺する感覚についておはなししているなかで、“絶望”という単語が何度も出てきたからだと思う。
絶望する。絶望、か。
行き止まり、蓋をされる、身動きができない、可能性が見当たらない…いろいろな言葉が浮かんでくる。そのどれもがしっくりくるし、そのどれも座りが悪かった。
ああでもないこうでもない、とその場その場で言葉を手渡していたので、その日に結局なにを伝えられたのかは定かじゃない。
でも、おでん美味しい…と思いながら探る僕の言葉たちを、ふたりの友達が受けとめてくれる時間から浮かび上がったものは、絶望の対岸にある気がした。
別の友達と、「精神的に体調を崩してしまった人とどう接するか」というはなしをしていたとき、僕は自分の実感から「ただ一緒にいてくれる、ってだけで救われる部分があった」と伝えた。
しんどいとき、そのしんどさを誰かに伝えるには体力が必要になる。内面を見つめ、社会や環境を分析し、伝わる言葉に変換する。大変だ。
その流れをスッと行えたらいいけど、そうはうまくいかない。つまづいたりぶつかったりして、思考の糸はこんがらがっていく。休職していたときを思い返すと、その糸を編んで渡せるようにしないと…という謎の焦りを抱いていた気がする。しんどさを理解してもらわないといけない。自分で整理しないといけない。
その焦りは、より思考をこんがらがらせていく。毛玉になったら、もうそれを伝えることはできない。
けれど、「ただ一緒にいてくれる」という実感は、理解してもらわなきゃ、という焦りを溶かしていく。毛玉のようになった思考を少しずつほぐしてもいいし、まったく関係ないはなしをしながら美味しいものを食べるだけでもいい。
その時間のなかで、ゆっくりゆっくり、自分の言葉が浮かび上がってくる。あの感覚も、絶望の対岸にあるものだった。
僕にとっての“絶望する”は、「自分の言葉がなくなること」なのかもしれない。
言葉がなくなる。僕のこの感覚は、どういったものなのだろう。
つい最近、しんどくなったときに書き殴っていたノートには、こんな文字たちが残っていた。
のっぺらぼうになっていく気がする。否定が渦巻くとき、その先にいるのは顔のない俺で。ゆっくり死んでいっている気がする。
「生きていくのが怖い」と思うとき、たいていは「自分が消えていく薄くなっていく」と思っているのかも。
僕は「死にたい」と思ったことはあまりないけれど、「消えてもおかしくないな」と感じることは多々ある。本当に、のっぺらぼうになっていくような感覚。
そのとき、僕が物理的に存在していても、僕は存在していない。
ここでなくしている言葉は、いわゆる言語的な“言葉”だけではないのだと思う。
批評家 若松英輔さんの書籍『詩を書くってどんなこと?』では、こう書かれている。
声にならない「声」、あるいは文字にならない言葉をここでは「コトバ」と片仮名で書くことにします。
「コトバ」という表記を用いたのは哲学者の井筒俊彦(一九一四~一九九三)です。彼は、人間が用いる言語のほかにも意味を表わすさまざまなものが存在することに着目しました。
画家にとって色はコトバです。音楽家にとっては旋律、彫刻家にとってはかたちがコトバです。
鳥はさえずりによって、花は葉を茂らせ、花を開花させることで世界に意味をもたらします。こうした意味の顕現を井筒は「コトバ」と書いたのです。
僕がよくなくすのは、ここでいうところの“コトバ”なのだろう。それを踏襲して、僕は“ことば”とひらがなで記している。
以前、北海道の東川町で「人生の学校」を開いている、Compathさんを取材させてもらったときには、こんな言葉に出会わせてもらった。
他者と生きるなかで私が感じたものは、ちゃんと存在するもの。大切にすべきものなんです。
でも、気を抜くと「それは正しいのか?」って、社会に寄せてしまう。そうすると、「こう感じるべきなんじゃないか」って、自分の感性を否定するようになる。
そうじゃなくて、まずは自分の感じていることに素直になってみる。「ちょっと体調が悪いな」でもいいし「私が本当にやりたいのはこれかも」でもいいし。
立ち止まって、ひとつひとつの感性をほどき、ほぐしていく。そうすれば、「私の感性も捨てたもんじゃないな」って思える。その先で、私が私として生きていけるんだと思います。
(私の感性も捨てたもんじゃない。人生の学校Compathから教わった、人間であることの学び)
私の感性も捨てたもんじゃない。そう思えたとき、少しずつ取り戻していけるものが“ことば”なのではないか。
この“ことば”は、容易に破壊される。僕がカタカナではなくひらがなで記すのは、その柔らかさを含みこませたいからだ。
「あなたのためを思って言っているんだよ」という善意の仮面をかぶり、大きな蓋を押し付けてくる人たちがいる。「みんなしんどいけど我慢してるんだから」と、その人の実感を見ない人たちがいる。「迷惑かけずにちゃんとしてくれる?」と、のっぺらぼうを推奨する人たちがいる。
社会的な課題として「分断」という単語を聞くことが増えた。直近で僕が分断を感じたのは、兵庫県知事選挙だった。
結果の是非は、僕にはわからない。思うことはあっても、それは僕の思うところ。けれど、選挙の結果を受けてSNSに広がっている言葉たちは、向こう岸へ火炎瓶を投げ込むような言葉たちだったように感じる。
互いに理解できない選択だったかもしれない。でも、互いの選択の背景を知ろうとせず、正そうとする姿勢は暴力でしかない。
荒井裕樹さんの書籍『まとまらない言葉を生きる』は、「『言葉が壊れてきた』と思う」ではじまる。
僕はもはや、“ことば”が壊れてきていると思う。みんな“ことば”を破壊され、その空白に耐えられず、自分を保つために火炎瓶を投げ込んでいる。
それが善意であれ悪意であれ、誰かを傷つけるときは、「自分が正しい」という感覚に酔うことになる。正しさに酔うのは、気持ちがいい。それはもう、気持ちがいい。
住野よるさんの小説『青くて痛くて脆い』に、こんなセリフがある。
自分に酔ってる人が、他人を酔わせられるんすよ。
作中では、周りから「意識高い系」と揶揄される人たちを肯定する文脈で使われる。けれど、この感覚が「正しさに酔う」ことと結びつくと、途端に暴力性が加速する。
あの人が言っていることが正しいんだ。それに賛同している自分も正しいんだ。正しい自分は間違っている人を矯正しないといけない。社会のためにも、間違った思考をしている人たちを正さないといけない。
こうして、ひとりひとりの“ことば”は善意や社会性という名の凶器で、粉々にされていく。
『なぜ人はカルトに惹かれるのか 脱会支援の現場から』という書籍では、人が正しさに酔っていく過程が描かれている。
そのなかで印象的なのは、「カルトの答えに従えば、もう迷わなくていい。迷って生きていく自由を放棄することで、人間は実に心地よく楽に生きることができる」という捉え方だった。
これはエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』で論じられていることとも重なる気がする。自由の放棄は、心地がいい。
こういった正しさへの傾倒や全体主義を、日常に根付いた視点で描いた小説に、梨木香歩さんの『僕は、そして僕たちはどう生きるか』がある。
作品の冒頭には、こんな言葉が記されている。
群れが大きく激しく動く
その一瞬前にも
自分を保っているために
生きるということは、集団で生きていくこと。だれもひとりでは生きていけない。けれどそれは、集団に完全に埋め込まれないといけない、ということではないはず。
集団が大きく激しく動くときでも、「でも僕はこう思うな」を抱くことができるか。その抱いた思いを、誰かと分かち合えるか。それでいて、「自分が正しい」と決めつけず、迷っていられるか。
冒頭で書いた、おでんをつつく会や、誰かがただ一緒にいてくれることで生まれていたのは、迷っていられる時間なのだと思う。
僕のなかにある“ことば”を、迷いながら見つめる。迷いを抱えたまま、“ことば”を誰かに手渡す。その誰かがしっかりと受けとめてくれて、その人も迷いながら自身の“ことば”を返す。僕はそれを受け、新しく浮かんできた“ことば”と出会いなおす。
生物学者 福岡伸一さんが提唱する「動的平衡」という捉え方では、生命を固定されたものとしてではなく、流れのなかに生命を見る。身体組織は、分解と合成が絶えず繰り返されることで生命を維持している。その流れがないと、身体組織を保つことはできない。
同じように、「自分はこうなんだ」という確固たるなにかをつくるのではなく、“ことば”と出会いなおしつづける流れのなかに自分の存在を見ることはできないのか。
迷いつづけ、“ことば”に出会いなおしつづけられる。僕がどうしようもなく惹かれる時間や空間には、きっとそんな要素がある。そして、そんな時間や空間が社会ではまったく足りていない、と強く思う。
小さくても、とろ火という活動をつづけているのは、きっとそういう想い。
迷いつづける場を、“ことば”に出会いなおせる時間を、もっともっとつくっていかないといけない。ひっそりとつくっていくと同時に、組織などの社会的な運動のなかにも宿らせていかないといけない。
そんな焦りにときに飲み込まれながらも、日々切実さが募っていく。
僕がまだ知らないだけで、きっと迷いつづける場を、“ことば”に出会いなおせる時間をつくっている人、欲している人はたくさんいるんだろう。
以前、「詩のソムリエ」として活動されている方を取材したときの言葉がふっと浮かんでくる。
だから、小さな声であっても拾い合う場が必要だと思うんです。「私の感性も死んでいなかったんだな」って確かめ合う、一人ひとりの感性にうなずき合う場が。
感性をひとりで守るんじゃなくて、手をかざして、みんなで守っていく。そんなささやかな会をやっていきたいですね。
(感性に、うなずき合って生きていく。言の葉で詩を彩りながら | 詩のソムリエ・渡邊めぐみ)
容易に壊れてしまう、柔らかい“ことば”をひとりで守ろうとしなくていい。誰かの手を借りて、みんなで荒れ狂う風から守ればいい。
いろんな人に会いにいこう、いろんな人に僕の“ことば”を手渡してみよう、僕も迷いつづけ出会いなおしつづけよう。
そうして、揺らぎながら燃えつづけるものを、一緒に守りあう手を増やしていけたらと思う。