
ずっと興味のあった、田野大輔さんの『ファシズムの教室 なぜ集団は暴走するのか』を読んだ。

著者の田野さんは、ナチズムの研究をされている社会学者の方。この本は、田野さんが大学の講義内で行っていた「ファシズムの体験学習」を主題に扱っている。
ファシズムの体験学習。こちらのWeb記事でも紹介されているが、なかなかに異様な光景が広がっている。みなが白シャツにジーパンを着て敬礼をしている様子は、どうしても身震いしてしまう。
本書では、そもそものファシズムについてや、この授業での狙い、そして実際に体験した学生の感想などから、現代にも結びつくさまざまなものに対して警鐘を鳴らしている。
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第二次世界大戦時のドイツや日本については、歴史の授業や小説、映画などで触れたことはある。それはどれも、独裁政権下の抑圧だったり、息の詰まる閉塞感だったりを描いていたような気がする。
けれど本書の冒頭で書かれていたのは、ファシズムの“魅力”についてだった。
ファシズムの本質とは何なのか。(中略)
p6
鍵は何よりも、集団行動がもたらす独特の快楽、参加者そこにが見出す「魅力」に求められる。
権力者の号令のもと「悪辣な敵」に義憤をぶつけるとき、人びとは正義の側に立ちながら、自分の不満や鬱憤を晴らすことができる。そこではどんなに過激な暴力をふるおうと、上からの命令なので行動の責任は問われない。権威の庇護のもと万能感にひたりながら、自らの攻撃衝動を発散することが許される。
p27
権威に従うのが楽だから、という消極的な魅力ではなく、快楽とでも呼ぶような積極的な魅力。それがあるからこそ、独裁は成立する。
けれど、集団行動がもたらす独特の快楽は日常的なものでもある。スポーツ観戦や、音楽のライブ、文化祭もそうかもしれないし、地域のお祭りもそうだろう。
僕はスポーツも音楽も好きなので、不思議な高揚感は身体が知っている。同じユニフォームを着て、同じチームを応援すること。同じライブTシャツを着て、みんなで歌うこと。いまこの瞬間しか存在せず、いい意味で毎日のしんどさがどうでもよくなっていく。
あの快楽には、とてつもない魅力が宿っている。ファシズムの根底には、この魅力と権威との結びつきがある。
権威のもとで高揚している集団は、仕立て上げられた外部の敵を躊躇なく攻撃しはじめる。それは集団の意志とでも呼ぶもので、ちっぽけな個人は見当たらない。
参加者の攻撃衝動が堰を切ってあふれ出すとき、個人的な倫理観はもはや歯止めにはならない。
p115
参加者は全員で一緒に行動するにつれて、自分の存在が大きくなったように感じ、集団に所属することへの誇りや他のメンバーとの連帯感、非メンバーに対する優越感を抱くようになる。
p123
この集団の力が発揮されるよう、授業内で行っていた工夫が面白い。それは、学生を誕生月順に座らせなおす、それだけ。
これにより、友人と一緒にいた学生たちも知らない人と隣合わせになる。急に少しだけ落ち着かなくなり、どことなく周りを気にしてしまうようになる。
その状況下で、敬礼や号令などを強制されると、周囲の流れに合わせやすくなるという。
不安があり、それを解消する手段として、集団に溶け込む安心感、ひいては高揚感を求めていく。
個人的に、この構図がとても恐ろしいと感じた。いまの社会で、“分断”ということばをたくさん耳にする。それは思想どうしの分断もあれば、もはや個々人どうしの分断、という場面でも使われている。
どことなく漂いつづける閉塞感。ぼんやりとした不安が、真綿のように喉を締めていく。
ファシズムはこういう状況に対して、何のために生きるのか、どうすれば自分の存在価値を示すことができるのかを単純明快に教えてくれる。すなわち、「団結は力なり」である。生徒たち(※)の「熱狂」の根底にあったのは、そうした意味での自己実現の欲求だと言えよう。
p167
※)筆者注:ここでの「生徒たち」は、主題の体験授業ではなく、集団による暴走を描いた映画「Wave」の生徒たち。
さらに、本書からうかがえる閉塞感には、「やり場のない不満」というものもあった。
下記は、映画「帰ってきたヒトラー」に言及した文章。
ヒトラー自身が映画の中で、「私は君たちのなかに存在する」と言っている。怪物を生み出したのは、ドイツ人が心の底で抱くどす黒い不満である。
p166(筆者改行)
人びとが言いたくても言えなかった本音、胸の内に抑圧してきた憎悪に表現の機会を与えるところに、ヒトラー、そしてファシズムの危険な「魅力」がある。
混迷を深める現代社会のなかで、多くの人々が抱くやり場のない不満。ファシズムはそうした感情を養分にしながら、勢力を拡大する。
言いたくても言えない本音、抑圧してきた憎悪。これらの激しい感情は、きっと元々はやり場のない不満だったはずだ。けれど、蓋をするうちに、もしくは蓋をされているうちに、溢れ出て爆発してしまう。
SNSで投稿が少しだけバズった友人が言っていたが、元々の文章を読むこともなく意見をぶつけてくる人が、それはもう多かったらしい。議論や対話をするのではなく、一部分を恣意的に、または無意識的に切り取って攻撃する。
こうしたメッセージをストレスなく受け流せる人はいいが、そんな人は少ないはずで。いわゆる炎上というものへの恐怖を抱いていると、いつしか言いたくても言えないことが増えていく。
もちろん、その「言えないこと」が倫理的に間違っているのかもしれない。けれど、言えないこととして胸に秘している限り、その間違いは明らかにならない。言葉に出して対話すれば、社会のものさし自体を問い直せるかもしれないのに。
こうして、激しい感情の抑圧、閉塞感にまみれているとき、自分の不満を解消してくれる極端な発言に出会ったのなら、そこに惹きつけられるのも自然な流れだと思う。
今日の社会全体を覆う閉塞感は、それを打破しようとする攻撃衝動を惹起し、ファシズムの台頭に道を開く危険性をはらんでいる。ここには一つの逆説がある。現代社会では一般に赤裸な暴力は抑圧され、タブー化されているが、そのことが人びとの生活を無味乾燥なものにする結果として、かえって暴力の魅力を高め、「タブー破り」の欲求を惹起してしまっている。
p169
過度な言葉狩りがある一方で、激しい言動へ惹きつけられる人も増えているという両極端な状況は、本書に書かれている構図で読み解ける部分が多いのではないだろうか。
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じゃあどうするのか。その道のひとつが、ファシズムの体験学習なのだろう。
自分が大きな流れに加担してしまう可能性は、理論的にではなく感情的に、身体的に感じないといけないものなのかもしれない。たとえば、戦争時の日常の閉塞感はみな知識として持っているはずだ。でも、それが実感の伴った「反対」には結びつきづらい感覚がある。僕も含めて。どんな環境下でも、自分だけは大丈夫なのでは、自分だけは自分を保てるのでは、とぼんやり思っている。
本書の体験学習に参加した学生は、暴力的になりうる自分に気付くことになる。自らの意志のちっぽけさに恐れることになる。この感覚が必要なのだろう。
なにかの記事で、「対話できる身体になるのが大切」という言葉を見たことがある。違いに触れたとき、拒絶するのではなく、向き合う。その居心地の悪さに耐えられる身体。
この表現を援用するのなら、「大きな流れに乗ってしまう恐ろしさを知っている身体」とでも言うのだろうか。
暴力的な快楽に身を任せることの恐怖、意志とは違うところでそうなってしまう可能性を身体で感じていく。
それは直接的な体験だけではなく、追体験でも可能になるものなはずだ。だからこそ優れた文学作品が意味を持つのだろうし、語りべと呼ばれる方々の活動もつづいていくのだろう。
もしくは、過去の自分の追体験でもよいのかもしれない。誰しも、大小さまざま、「高揚感・解放感の中での暴力的な自分」に出会ったことがあると思う。それを思い出すのはなかなか抵抗感のあることだが、その事実を見つめるのも大切な気がする。
一方で、やり場のない不満に“やり場”を与えることも大切だろう。そのためには対話が必要となる。不満を一方的に断罪されるのではなく、他者とともに解きほぐしていくような場が。この不満の原因は、知識の不足かもしれないし、感情的なものかもしれないし、その人は正しいかもしれない。
感情的なものが暴力的なものになる前に、分かち合わないと、ことばを受け止めあわないと、こんな場は生まれ得ない。
本書にも書いてあったが、おそらく特効薬は存在しない。地道に地道に重ねていくしかないのだろう。
あとがきを読むと、この体験授業はさまざまな事情で行われなくなったようだ。残念で仕方がない。(その過程も考えさせられる出来事だらけだったが…)
それでも、本書を読んだひとりひとりで「大きな流れに乗ってしまう恐ろしさを知っている身体」に近づく場をつくっていけばいいのだと思う。ことばを受け止めあう、小さな場を。
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