文学による抗いの可能性 『一九八四年』を読んで|全体主義の勉強覚え書き_2

火守りのつれづれ

全体主義について学んだり考えたりしよう…と決めたとき、ぱっと浮かんだのがジョージ・オーウェルの『一九八四年』だった。

最初にどこで知ったかは覚えていないのだが、「全体主義が浸透する様子を描いている」ということだけ知っている状態が長く、いつか読もういつか読もうと思っていて、ようやく読むことができた。

今回読んだ新訳版の版元には、あらすじがこのように記されている。

〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する超全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは、真理省記録局で歴史の改竄に従事していた。彼は奔放な美女ジュリアとの出会いを契機に、伝説的な裏切り者による反政府地下活動に惹かれるようになる。

https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000610293/

この作品で描かれているひとつは、前回読んだ『ファシズムの教室』でも言及されていた「常に外部の敵をつくりだし、攻撃しつづけることで保たれる権威」だと感じた。

作中で〈ビッグ・ブラザー〉が率いる党は、国内において絶対的である。その揺るぎなさは、ゴールドスタインという党にとっての敵を意識しつづけることで成り立っていた。

例えば、〈二分間の憎悪〉というプログラムを実施している。毎日のようにゴールドスタインという男の顔を映写し、彼に向かって、みなが怒号を浴びせる。

『一九八四年』で描かれる、この敵への攻撃がもたらすエネルギーは、もはやグロテスクでもあった。その渦には、〈ビッグ・ブラザー〉への疑念を募らせているウィンストン・スミスであっても飲み込まれてしまう。

我に返った瞬間、ウィンストンがふと気づけば、皆と一緒に叫び声を上げ、靴の踵で椅子の横木を激しく叩いている自分がいた。〈二分間憎悪〉の恐ろしいところは、それぞれが役を演じなければならないことではなく、皆と一体にならずにはいられないことだった。三十秒もすると、どんなみせかけも必ず不要になった。

P25

ここで書かれている「皆と一体にならずにはいられない」という言い回し。大きな渦のなかで足を踏ん張り、その場で周りを見渡すのはとても難しい。

その難しさを助長するのは、監視の存在だ。それも権力者による監視ではなく、自警団のような存在。

印象的なのは、〈ビッグ・ブラザー〉による教育を受けた子どもたちが、家庭における自警団になっていくことだった。作中の新聞でも、子どもが自らの両親を告発したという記事が多数載せられているらしい。

これは、ミシェル・フーコーが円柱の刑務所施設パノプティコンに見出した、「<見られている>ことを永続的に自覚させることで、服従をつくりだす」という図式と重なる。絶えざる監視によって、自発的な服従が生まれていく。

ここには、『ファシズムの教室』ではあまり描かれていなかった、いわゆる無力感のようなものが潜んでいる。大きな渦に飲み込まれる高揚感の裏には、そこに飲まれずにいつづけることへの諦観がある。

一言一句を監視されているのではないか…という恐れがつきまとうと、人間は自分の思考を手放さざるを得ない。ネットでの炎上を経験した知人が「自分がなにを言っても、また不特定多数の人から否定されるかもしれないと思うと、もう自分の考えがわからなくなった」と言っていたことも思い出す。

少し逸れるかもしれないけれど、SNSの功罪はここにあるのではないか。なにかを投稿すると、数字というわかりやすい形で良くも悪くも応答がくる。好意的なものが来ればその方向に行きたくなるし、否定的なものが来れば、その考えには蓋がされていく。なかば無意識的に。

そこには〈ビッグ・ブラザー〉のような大きな流れはないものの、それぞれがそれぞれの首を締めあうという、一層のディストピアに育ち得る芽がある気がする。

少しでも気に食わない色があると、透明な監視の目がこぞって漂白しにいく。それを見ている周囲は、出したい色を隠し、白紙しか持ち歩かなくなる。そのうち、色を持っていたことを忘れ、真っ白な人間として過ごす。そして、とても濃い色が多数を一斉に塗りつぶす…そんな抽象的な映像を想像してしまう。

この想像に重なるのは、『一九八四年』で描かれた言葉への視点だった。作中の国ではニュースピークという公用語が考案され、使われている。そのニュースピークの目的は、下記の通り。

イングソック(※)の信奉者に特有の世界観や心的習慣を表現するための媒体を提供するばかりではなく、イングソック以外の思考様式を不可能にすることでもあった。

※作中に登場するイデオロギー

言葉を統制することで、思考を統制していく。歴史的にも、民族統一の際には言語を統一させてもいる。とある民族に固有の言語を奪うということは、その民族の思考や思想を奪うことでもある。

『一九八四年』では、このニュースピークによる単語や言い回しが多く登場する。最初は違和感があるのに、読み進めていくと、その言い回し以外だとしっくりこなくなり、当たり前へと移り変わっていく。

読書のなかで、読者である僕たちも思考と言葉の結びつきを体験する。

『ファシズムの教室』を読んで書いた前回、こんなことを書いた。

自分が大きな流れに加担してしまう可能性は、理論的にではなく感情的に、身体的に感じないといけないものなのかもしれない。

https://torobibook.com/tsurezure/250204/

言語のことも含め、今回の『一九八四年』は、まさに感情的に感じる契機になる。〈ビッグ・ブラザー〉に疑念を抱くウィンストンが日々どのように生活しているかを、退屈と言っていいほどに鮮明に描いている場面がいくつかあるからだ。

監視されている恐怖、大きな流れになってしまう高揚感。文字で打てば数十文字で済むけれど、感覚としての存在感はとてつもない。その途方もなさを詳細な描写で追体験させてくれる。これは、文学の効果だろう。

そしてその追体験は、自身のなかにある重なりそうな実体験を引きずり出してくる。

どこかしんどい、と伝えるも「みんな我慢しているから仕方ない」と言われつづけ、体調を崩してしまったこと。
長時間の説教が定期的にあり、自分の考えを残すことを避けるようになったこと。

思い出すと内臓が腐りそうになるほどの嫌悪感。きっと誰しもにある。そして、いまは過ぎていたとしても、いつ戻ってくるかなんてわからない。さらに、その嫌悪感を抱かせる側にいってしまう可能性だってある。

結局のところ、この実感や可能性に健全に苛まれつづけるしかないのではないか。過去の実感がふと蘇れば、敵へ振り下ろした腕が止まるかもしれない。

実感を手放さない。そこに文学が存在する意味があるのだろう。読むことはもちろん、生み出していくことも。文学だけじゃない。さまざまな“ことば”に手を伸ばすことは、色を塗っていくことだと思う。白紙にならないような抗い。

とはいえ、それが難しい。そして、そんな個人に帰するものだけに背負わせてもいけないだろう。攻撃せざるを得ない環境、社会状況など、個人と相互関係にある外部も一緒に見ていく必要がある。

いつだって、どの存在も社会や世界に埋め込まれている。すべてから離れた存在にはなれない。次は、個人をこえた視点をより濃くして考えてみたい。

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