
あぁ、今日も空っぽな言葉が流れていく。頭の片隅でそう思いながら、僕の口は動きつづける。並んでいく言葉たち。そのなかに僕はいない。空白が場を引き裂いてしまいそうで、テープで繋ぎ止めるように言葉を貼っつけている。友人と話しているときでさえ、ときに空虚さを並び立ててしまう。僕は今日も、こうして形だけを保っていく。
読書会などを開くたび、自ら開催しているくせに落ち込んでいる。もっと滑らかにコミュニケーションできたらな、と何度も考える。でもきっと、外から見ると滞りなく進んでいる。じゃあなにに落ち込んでいるのだろう。
数年前、「立て板に水」ということわざを実感したインタビューがあった。よどみなく流暢にはなすさま。どんな質問を投げかけても、すらすらと言葉が並んでいく。聞きたかったことは聞けたし、記事も無事に完成した。それなのに、答えてくれた方と出会えた感覚がなかった。インタビュアーとしての力量不足。
空虚な言葉が並び立ってしまうときもそう。他者といるのに、その人に出会えない。悲しい。違う。悔しい。違う。さびしい。さびしい。そうか、さびしいのか。
友人が「とあるテーマに基づいて選書する企画があったら、あくつさんはなににする?」ときいてくれたことがあった。僕は「さびしい、かなぁ…」と答えていた。
さびしいという感覚が、僕は心地よい。けれど、誰かと出会えなかったときのさびしいは少し異なる。
詩人の谷川俊太郎さんが「孤独は前提」と語っていた。以前観たNHKの番組では、「人間社会内孤独」と「自然宇宙内孤独」ともおはなししていた。社会の中での孤独のほかに、存在そのものに刻み込まれた、どうしたって拭えない孤独があるということ。
冬のキリッとした空気、夏のアスファルトを覆う陽炎、散り積もった桜の花びら、燃えさかって揺れる紅葉。大きすぎる世界を前にすると、僕はどうしたってひとりなんだなと、ちっぽけなんだなと思わされる。
出会えなかったさびしさと、出会えたからのさびしさ。これは、人間社会内孤独と自然宇宙内孤独とに対応しているのではないか。
なにかと出会えたとき、僕らは他なるものに圧倒されてしまう。それは、飾りものの言葉で取り繕っていると、なにかに出会えないということで。大きなものの大きさにおろおろしつづけた先に、ようやく出会いは転がっている。
「おろおろする」を辞書で引くと、「どのようにしたら良いのか分からず、落ち着かない状態」とあった。だとすると、わかったつもりになれば、おろおろすることもない。
あのときのインタビューは、僕の至らなさによって、その人の大きさを覗けなかったのだろう。僕もその人を、その人もその人自身をわかったつもりになってしまっていた。僕が開く場でもそうだ。問いや安易な言語化を阻むものを前にして、空虚な言葉を並べて落ち着いた振りをしていた。
他者は、世界は、僕がわかるには大きすぎる。本当は、おろおろしつづけるしかないのだろう。なのに、見栄のようなもので武装してしまう。わかったような言葉が出てきてしまう。
先日読んだ、乗代雄介さんの『旅する練習』という作品にこんな言葉があった。
「本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。この忍耐は何だろう」
迂闊な感動を内から律する忍耐。下手な言葉や感情で覆い隠さずに、手をこまねく時間を過ごすこと。
いのちは美しいだとか、生きる意味はないだとか、あなたは優しいだとか、すぱすぱと切り分けるような言葉に逃げて終わらせないということ。
大いなるもの、他なるものを前にして、おろおろする場や時間がもっと必要だ。もっと圧倒されないといけない。もっと、もっと、おろおろしていかないといけない。

お手紙のようなニュースレターをはじめました。記事の紹介や、記事になる前の生煮えのものを書いた文章たち。不定期ですが、よろしければこちらからご登録ください。