ちいさなひとりとして、ちいさなひとりの声を聞きあう、語りあう

火守りのつれづれ

タイムラインに流れてきた記事のなかで、こんな文章に出会った。

「僕の傷」を「僕らの傷」に昇華したい願望が渦巻く昨今だが、「僕の傷」というのはいつでもひとりぼっちなものだ。ひとりぼっちを大切にすることからしか見えないことはあるし、ひとりぼっち「どうし」だから、互いに話せることもきっとあるのだ。

https://note.com/toba_torakitsune/n/nda1424b53eb0

「僕の傷」を「僕らの傷」に昇華する。おそらくそれは、個々人が抱えた痛みを、社会的ななにかへと結びつけようとする行為なのだと思う。

そして、その行為はきっと容易に暴走する。

こんなしんどさを感じた。あんな辛い言葉を投げかけられた。その個人的な体験や感情には、多くの社会的背景が存在している。制度的な歪みだったり、社会通念的な過ちだったりが、ひとりの痛みを生んでいることは多いのだろう。

第二波フェミニズムのなかでは、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンが掲げられていたらしい。

ひとりひとりの声を消すことなく、大切に耳を澄まし、社会へと働きかけていく。とても重要なこと。

一方で、「個々人が抱えた痛みを、社会的ななにかへと結びつける」という構図のみがひとり歩きすることもある。

声を聞きあうことなく社会へと結びつけようとするのは、引用元のnoteでも具体例があったけれど、自分の抱えた感情に社会的正義をまとわせようとすることでしかない。気づかぬうちに、単なる自己正当化へと落ちていく。

その願望にはきっと、ひとりひとりにある痛みや傷を、そのまま抱えていくことは難しいという側面があるのだろう。「こんなことでしんどいのは自分が弱いからだ」「俺が頑張ってないだけだ」など、社会規範を内面化し、自己を否定していく。個人的にも、とても覚えがある。

だからこそ、「あなたが悪いわけじゃないんだ」と伝えるためにも、「個人的なことは政治的なこと」という考えが大切になる。それはきっと、誰かの傷や痛みをみんなで抱えあうようなこと。連帯、ということばを使う人がいるけれど、そのイメージなのかもしれない。

けれど、社会と結びつけられない傷や痛みがある人は、どうしたらいいのだろうか。また、ひとりの傷や痛みが社会と結びつけられたとき、失われるものはないのだろうか。そんなことを考えてしまう。

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昨年、「ずっと避けてきた心のふれたくない部分に触れる」というテーマでZINEをつくった。それを読んだ友人が、「あんまり得意ではない孤独の時間をほんのり愛せるきっかけになった」と言ってくれたことがある。

その言葉がとても、とっても嬉しかった。だからこそ、冒頭の引用文が心に残ったのだろう。

そして思うのは、「社会へと結びつけないままで抱える傷や痛みだけに宿る力」があるということ。

それがきっと、引用文のなかの「ひとりぼっちどうしだから話せること」。

友人の言葉に僕が返したのは、「孤独だから、誰かの孤独のとなりにいれるのかも」といった言葉。こうして僕があらわそうとしたものも、社会などの大きななにかとは結びつけないからこそ生まれ得るのだと思う。

僕も、僕が抱えている痛みを社会へと結びつけたくなることがある。その願望も大事だし、まだ見ぬ仲間と連帯していくことも大事だ。けれど、その痛みのなかには、社会と結びつけてはいけないものだってある。それを忘れないでいたい。

ちいさなひとりとして、ちいさなひとりの声を聞きあう、語りあう。僕がやっていたいのは、きっとそういうことなんだろうな。