ここ最近で、もっとも痛みを感じたことばがあった。
一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいることを言う。
『[新編]不穏の書、断章』フェルナンド・ペソア p21
詩人を例に出しているが、この次のページで「よく書くためにはいずれにしろ詩人である必要がある」と言っているよう、著者はこのことばをすべての書き手に向けているのだと思う。
実際に感じること、感じようと思ったこと、感じねばならぬと思い込んでいること。
あぁ、うすうす勘づいてはいたけど、僕はずっと三流だったんだな…と久し振りにまっすぐ真っ当に凹んでいる。
基本的に、僕は自分のことばが上滑っている自覚がある。嘘を言っているわけではないものの、実もない感覚で、話せば話すほど、書けば書くほど、本当にそう思っているのかよくわからなくなってくる。
例えば、とろ火の記事やSNSの投稿で、「〜〜したい」と終えることが多いと気付いた。本当に、そうは思っている。でもそれは、感じようとしたこと、感じねばならぬと思い込んだことじゃないのか? その証拠に、書いたその時点で僕のことばは宙に浮いてしまっていて、その後のなににもつながっていない。誰のことばなんだろう。
なんの本で読んだか忘れてしまったけれど、本当の意味で「わかる」と、その人は変わらざるを得ないんだ、と言っている人がいた。その変化は不可逆であり、一度わかってしまうと、わかる前にはもう戻れない。それが、本当にわかったということ。
感じる、というのも同じなのではないか。なにかに出会ったとき、本当になにかを感じたのだとしたら、その人は変わってしまっている。でも僕はきっと、うまく変化できていない自覚があるからこそ、感じるべきと思っていることをペラペラとことばにしている。その以前以後では、なにも変わっていない。宙ぶらりんのことばがそこにあるだけだ。
厄介なことに、「感じるべき」と思っていると、本当に自分が感じているはずのことは隠れてしまう。もしくは、もはやナマの実感が浮かばないようになってしまう。その状態だと、「実際に感じること、感じようと思ったこと、感じねばならぬと思い込んでいること」は、本人のなかでは団子のようになっている。
だったら、自分の紡いできたことばを、紡ごうとしていることばを、精査しないといけない。自分以外は気付けない微妙な差異を見つけないといけない。いや、もしかしたら、自分よりも他者の方がその差異は見つけやすいのかも。
僕は、実際に感じたことをことばにする書き手になりたい。
…「〜たい」と勢いで書いてしまったけれど、これは本当だろうかと思ってしまう。書き手をしている以上、そう願うべきだ、と思ってはいないか。
書いていて嫌になるくらい気づくのは、僕はいつだって見栄をはっているということ。虚勢のようなものではなく、「いいたたずまいの人が感じているようなことを僕も感じていますよ」のような雰囲気を出そうとしている…とでもいうのだろうか。吐き捨てるように言うならば、おしゃれぶっている。
「実際に感じたことをことばにする書き手になりたい」は嘘ではないけれど、やっぱり、見栄のようなものがあるんだろう。ついついいい感じの言い回しをしがちだ。そんなときは、たぶん実際に感じたことではない。
悪い意味で、それっぽいことを書けるようになった。なってしまった。でもそれっぽいことはそれっぽいものの、自分のなかにあるものとはズレている。
じゃあ、この記事をだらだらと書いてきて、いま僕が思っていることはなんなんだろうな。
うーん。
「ダサくたって自分のことばで書こうな、俺」、なのかもしれないな。
