
先日、友だち3人で集まって、「連画」をやってみた。
「連画」とは、連想ゲームのように写真をつないでいく試みのこと。2年ほど前にワークショップを開いたときの記録には、こう書いてある。
「きゅうりがぶらさがった写真」から「緑のカエルの展示」がつながっていたり、「カラフルな文字が並んだトラック」から「色とりどりの鯉のぼり」がつながっていたり。
写真の構図や色味、はたまた意味など、場に置かれた写真から読み取ったものを、自分が過去に撮った写真に重ねていく。それが「連画」という営み。

僕はカメラを持ってふらふらと散歩するのが好きで。そのときそのときで、「なんかいいなぁ」と思った諸々の写真を撮っている。
水たまりにうつった電信柱だったり、雨の波紋だったり、不思議な形に穴の空いたベンチだったり。
それらの写真はあまり見返すことはないし、別に日常の記録としても意味は成していない。そもそも、そこに意味なんてないまま撮影しているし、僕もなんで撮ったのかはよくわかっていない。
でも連画では、そういった写真たちが急に声高に主張してくる。
電線の斜めの角度が、布団の斜めの縁と重なり。水紋が、扇風機の円と繋がり。ベンチの黒い穴が、イモリのお家の穴ぐらになり。
よくわかっていない僕の過ごしてきた日々の断片が、誰かの断片の横に並ぶと、存在感を増してくる。まだ参加した回数は少ないけど、連画のなかで感じた豊かさの秘訣はここにある気がする。
それは「すべての日々には意味を見出すことができる」とか、そういうことじゃなくて、意味のなさはそのままにしながらも、日々がそこにあったことを認めてくれる、とでもいえるだろうか。
これは僕の勝手な思考だけど、「連画」は純粋な「遊び」でありつづけているから、なのかもしれない。
「遊び」を定義している文章はたくさんあるけれど、「目的性から自由であり、ただひたすら今この世界にいて、からだやこころを弾ませて楽しむこと」ということばが好きだ。
(手元に本がなくて、過去のメモ書きを参照しているので、ちょっと言い回しが違うかも…。鵜野祐介さんの『センス・オブ・ワンダーといのちのレッスン』という本に出てくることばです)
遊びは、目的性から自由である。それはつまり、遊びには意味なんてないし、意味を志向した途端に遊びの「遊び性」は失われていくということでもある。
意味を解体してはじめて遊びになっていく。この解体作業が、連画にはある。そもそも、過去に撮りためてきた有象無象の写真たちが素材になる。もちろん目的ありきで撮った写真たちもあるけど、カメラロール全体で見ると、「なんで撮ったんだっけか?」と思うもののほうが多いのではないだろうか。
その写真を撮ったときの意味はあったかもしれないけど、見返すと、そこに意味はなくなっている。そんな、よくわかっていないけど残っていた写真たちを使うことで、連画の「遊び性」が強調されている気がする。
その写真には別の写真が紐づいて、その場その場での繋がりが生まれていく。けれど、その繋がりは更に広がったり、枝分かれしたりして、固定されることがない。いつまで経っても、なにかの意味に回収されることがない。ひたすらに拡散していく。
意味のよくわからない写真たちを並べて、意味のよくわからない繋がりを見出し、意味のよくわからない嬉しさを感じる。まさに、「遊び」だ。
これは前回のときもそうだったけど、連画のよさは、その渦中にいるときに最も強く感じる。記録を振り返って、「面白かったなぁ」とは思うけど、やっぱり「そうきたか!」とみんなで笑いあった時間には敵わない。生成的というか、流動的というか。流れつづけているという、その動きそのものを楽しんでいる感覚。それもきっと、「遊び性」なんだろう。
そして、その動きそのものを楽しむことは、そのまま生きるそのものを感じる/認めることになりうるんだろう。
こういった時間を過ごすと、やっぱり、よくわからないけど嬉しくなる時間を日々に差し込んでいきたいなと思う。前々からやっている夜明けの散歩とか。このあいだ、急遽「夜桜見に行こう」と友だちを誘ったのも良かったな。
「なんでそんなことやるの?」と問われて、「え、うーーーん…その時間が楽しい、から?」と、しどろもどろになったら、それはきっと立派な遊びだ。
