“社会”を想わなくてもいい。

火守りのつれづれ

ここ数日、かなり調子が悪い。ちょっと涼しくなってきて、暑さでたまっていた疲れが出てきた感覚もある。

でも、理由には思い当たる節もあって。そのあたりとどう向き合えばいいのかわからなかったのだけれど、少しだけ足に力が入るようになってきた。

最近はひとりでやっているPodcastでぽろぽろとはなすことも多いのだけれど、今回の感覚は丁寧にことばにしたいと思い、こちらに書いてみる。

調子を崩したきっかけは、戦争について考えていたから。

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8月15日。太平洋戦争終戦の日。いままで気にしたことなんてなかったのだけれど、さまざまな本を手に取るようになったからか、今年は8月に入ってから少し意識していた。

なにを考えたいのかはよくわからない。見て見ぬふりをしつづけている自分に罪悪感めいたものはあった。もともと社会のことを考えることはなくて。環境問題だったり社会問題だったりと呼ばれるものに対して、興味関心を抱いたことはなかった。

以前もこのような記録を書いたことがある。

読み返して、いまも同じ感覚を持っているように思う。なんで生きているのかがよくわからないから、よりよい社会というものを思考して活動していくこと自体ができない。一方で、大切な存在もたくさんいるから、活動できない自分に引け目を感じてしまう。

今回、戦争について考えようとして堕ちてしまったのも似た感覚だった。

左右社さんから出ている『ウクライナ戦争日記』、いい風さんから出ている『記憶の旗を立てる〈8月15日の日記集〉』、無料公開されていた漫画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』を読んだ。

そこには戦争のなかで簡単に死んでしまう存在がいて、その理不尽さに心を痛める人たちがいて、そんなことが起ってはならないと行動している人がいて。

すべて大切な語りや記録、作品。揺さぶられたし、読めてよかったと思う。でも同時に、じわじわと頭のなかが黒くなっていくような感覚もあって。気がつくと、息がうまく吸えない状態になってしまった。

なにかを考えたかったのだけれど、なにも考えられなかった。

いろいろに触れる前から、戦争には大反対だった。意味がわからなさすぎる。戦時中の日記や描写を見ると、人間が人間として生きられなくなっていくのだと感じる。単純に、そんなのは嫌だ。

でも、じゃあ、なにか社会に対して働きかけよう、という気持ちになるかというと、うまくそちらには傾かない。むしろ、生きているということの軽さ、争いが起きればいくらでも人は死ぬということ、それを繰り返してきたということ、争いがなくたって人はいつでも死ぬということ…そんなことばかりが頭を巡ってしまう。

人は死ぬ。いつか死ぬ。戦争を生き残った人も死ぬ。戦争がなくたって死ぬ。ひとりひとりはちっぽけだ。その矮小さに、まず怯えてしまう。

そして、戦争の文脈から軽さを見出してしまう自分を責めてしまう。こんな犠牲をおこしてはいけない。本気でそう思う。でも同時に、生きてどうするんだろうとも思ってしまう。こんなちっぽけさを、どうして継いでいかないといけないんだろう。

じゃあ戦争したっていいやん、とはまったくならない。でも、「戦争を起こさないためにどうしたらいいんだろう」という思考のはるか手前、「いつか死ぬんだよな、なんで生きていくんだろう」という場所で止まってしまう。そんな思考になって申し訳ないと、誰に向かってかもわからない謝罪のことばでいっぱいになる。

なんで生きるのかを悩めるのだって、いまのところ僕自身が戦争に巻き込まれていないからだ。その事実はわかっているけど、社会に働きかけること、よりよい社会を考えることができない。いつも、どこかしんどくなってしまう。

なんでだろう。社会を考えると、「生きていることも死ぬこともよくわからない」という感覚を手放してしまうからだろうか。途方もなさに呆然とする感覚と、どうも断絶されている。だから、「なにかできることを…」という思考回路になると、急にしんどくなってくる。

同時に、繰り返しになるけれど、その態度が無責任だと思えるようにもなってきていて。いい意味でも悪い意味でも。

存在の軽さを感じてしんどくなる。その方向でしんどくなっている自分への罪悪感がある。そして、存在を守っていくための思考と行動にどうしても向かえない自分への罪悪感も。

このあたりがぐちゃぐちゃに入り混じって、心が動かない状態になってしまったのだと思う。

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こう書いていて感じるけれど、よくわからない部分で真面目なのかもしれない。それは、どっちつかずとも言える。僕の場合、やっぱり真ん中に置いておきたいのは「生きるも死ぬもよくわからない」という感覚であって。だから、社会をどうこうしようとは考えることができない。

その態度を「無責任」だと捉えてしまっているのだろうけど、それは僕が大切にしたい感覚を握りきれておらず、中途半端なだけでもある。

できないものはできない、と諦めるしかない。周りに活動的な人も増え、だからこそ我が身を振り返ったときの、どこか惨めな感覚が育ってきてしまったけれど、そうはなれないし、そうなろうと思わなくてもいい。

少なくともいまの僕はきっと、社会に目を向けてもしんどくなるだけなのかもしれない。それでいい。

とろ火では「迷いあう」を大事にしていきたいのだけれど、それは回り回って、よりよい社会につながっているのだとも思う。でも、それをことさら強調してしまうと、僕がしんどくなる。

僕が単純に必要としているから、それをやっているという感覚。社会とかは置いておいて、僕自身が救われるから、それをやっているという感覚。誰かの大切なものを大切にできるかもしれないから、それをやりたいという感覚。

それは、「遊び」なのかもしれない。

遊びとは「その行為自体が目的となっているもの」と言えるんだそう。そして、「いのちを弾ませること」と言っている人もいる。

よくわからない罪悪感を抱え、膝を抱えてうずくまっているくらいなら、遊んでた方がいい。立派なことに無理やり向かわなくていい。むしろ、もっと遊ぶべきだ。僕の、そして僕の周りの人たちのいのちを弾ませていけばいい。

朝井リョウさんの小説『死にがいを求めて生きているの』では、まさに立派なことをしようとして、ボロボロになっていく人たち、もしくは無意識のまま暴走していく人がたくさん登場する。でも、そのなかで最も強く、それこそ「いのちが弾んでいる」と感じた描写は、「結局、目の前のこの人のためになにかをしたい」という感覚だった。

生きていることも死ぬこともよくわからないけど、僕や目の前の誰かがいまここに在ることは、きっとたしかで。それを味わっていくしか、僕はもうなにか大切なものを保てない。

そういう人間なんだと、何度も何度も思い出しつづけるしかない。