
とろ火の活動では「迷いつづける。出会いなおしつづける」を掲げて、「迷いあう場をつくる」を中心に据えて考えている…とサラッと書いたものの、それで「へぇ、そうなんですね」とはなかなかならないし、僕自身、じゃあ具体的になにをしていくかは常に悩んでいたりする。
楽しそう、やってみたいなという種はいくつかあるものの、それらがどのように繋がっていくのかがイマイチしっくりこないような。結局僕はなにをやりたくて、「とろ火」をはじめたのか。そんなことを考えずやるのもいいけれど、疑問が入り込むと途端に手と足が止まってしまう性質なので、腹落ちできないと上手く動き出せないし、動きつづけられない。
このあたりと向き合って、変わってもいいから仮決めで整理しないとな…と思いはじめたのがここ数ヶ月。「あれ、こう説明したらいいのでは??」と、少し見えてきたので、8割方自分のためにまとめてみる。
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結論めいたものから書いてしまうと、とろ火に宿らせたいものは志賀直哉が書いた下記の文章に凝縮されている。
人間が出来て、何千万年になるのか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えていえば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。
ここに現れているのは、とある存在の「かけがえのなさ」と「取るに足らなさ」が、共存している状態だと言える。目の前のたったひとりの存在の重さを認識しつつも、誰しもが途方もない時間の流れのなかで生まれては消えていくだけの存在でもあるという事実。
重くもあり軽くもある。吹いたら飛んでしまうのに、濃い質感もある。
このどっちつかずとも言える状態が理想なのでは…と僕は考えている。かけがえのなさが強調されると、個の色が濃くなっていき、その個たちは互いに壁を張りはじめる。一方、取るに足らなさが強調されると、無気力となり、いまの生を簡単に手放しそうになる。
“いのちの流れ”とでも呼ばれるような途方もない地平に立っていながら、たしかにそこに立ってはいる自分がいるということ。立っている自分はいるものの、そんな自分はどこまでが自分なのかよくわからないこと。でも、いま自分は自分として存在しているはずということ。
「かけがえのなさ」と「取るに足らなさ」が溶け合う地点ではじめて、“その人”が滲み出してくるのだと思う。
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「かけがえのなさ」と「取るに足らなさ」を併せ持つ。その感覚と紐づいているのが、「迷いつづける。出会いなおしつづける」なのだと気づいた。
「迷いつづける」ことで「取るに足らなさ」を痛感し、「出会いなおしつづける」ことで「かけがえのなさ」を実感する。その往復運動をしていけたらいい。
迷うとは、そこに安住できる正しさなんてない、と信じるような態度だと思う。「僕の生きる意味はこれなんだ」と答えを出してしまったり、「仕事で成功するのが幸せでしょ?」と疑わずに頑張ってしまったりすると、次第に思考や態度、関係性などが固定化されていく。これらは、安心したいという欲求があるからだろう。僕もしんどいときはそうだった。いまでもそうかもしれない。「これを信じていれば苦しまずに済む」という答えを欲してしまう。
けれど、それだと覆い隠されていく“その人”がいる。答えという安心のなかで個を守っていける気もしてしまうけれど、そこで守っているのは、物理的な命であって、もっと抽象的な“その人”ではない。
固定化できるものなんてない。確立されて、動かないものなんてない。ちっぽけで取るに足らない僕たちは、常に動的な世界のなかでおろおろしていくしかない。そんな態度を「迷いつづける」と呼ぼうとしている。
一方、「出会いなおす」は、迷っていくなかでもハッと気づいたり、大きく自分の実感が動いたりする瞬間のことを指そうとしている。我思う、ゆえに我あり…ではないけれど、その瞬間瞬間の発見や心の動きはたしかにそこにあって、だからこそたったひとりの“その人”と深く繋がっている。
大きな視点で見れば取るに足らないかもしれないけれど、出会いなおしていくその一瞬を楔のように打っていくことで、空虚に消えそうな自分を手放さずにいられる。
迷いつづけ、出会いなおしつづけ、そしてまた迷って、出会いなおして…その連環運動のなかから、「かけがえのなさ」と「取るに足らなさ」が溶け合う地点が徐々に浮かび上がってくるのではないか。
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じゃあ具体的にどうしていくよ…というところが問題で。そこをずっと悩んでいたのだけれど、そのなかで改めて惹かれてきたのが「編集」という営みの考え方だった。
個人的にもお世話になっている編集家の松永光弘さんは、「編集」という営みを「組み合わせによって、モノや人、情報などの価値を引き出す」と説明している。ここでいう価値は、対象が持っている属性、要素、特徴…などなどと僕は理解している。
この「編集」の営みの肝は、対象を固定した場所に置くのではなく、他との関係性のなかで常に揺れ動きづつけるものと捉えていることだと思う。なにか確固たるものを探すのではなく、いろいろなものとの関係性によって浮かび上がってくるものを掴んでいく。
これが仕事などの文脈になってくると、無数に浮かび上がってきたものからよりよい価値を目利きしないといけない。けれど、「いろいろなものとの関係性によって浮かび上がってくるものを掴んでいく」というプロセスだけを見ると、まさに「迷いつづける。出会いなおしつづける」そのものなのではないか。
関係性に着目していくことで、迷いつづけることができ、その新しい関係性ひとつひとつのなかで、出会いなおしつづけることができる。
編集を経た最終のアウトプットではなく、編集で行われているプロセスそのものに重きを置くような。とろ火でやっていきたいのは、そういうことなんじゃないか。もちろん、目利きをはさんで、いったんアウトプットを行ってから、再度迷いに帰っていくときもあるだろうけれど。(そうじゃないとたどり着けない出会いなおしもあると思う)
友だちが以前、「魂を濃くする」のような言い回しをしていた。めちゃくちゃしっくりきたので、折りに触れて使っている。編集のプロセスは、おそらく魂を濃くすることにつながる。
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この編集のプロセスの視点をどう活動に重ねていくのか。
今考えているもののひとつは、ひとりひとりの思考とことばを濃くする営み。もうひとつは、死生や途方もなさとの新たな関係性を提示する営み。
①
「ひとりひとりの思考とことばを濃くする」とは、なにか大切にしたい感覚や思考、活動の種を持っている人と一緒に、編集のプロセス、つまりはさまざまな関係性のなかで新たに引き出される価値を掴んでいくこと。
ちょっと違うかもしれないけれど、卒業論文の指導教官のイメージがある。当時、しどろもどろに「こういうことに興味関心があって…」と教授に伝えると、間髪入れず、「じゃああの本とこの本読むといいかもね。あとは、こういう分野もあるから勉強してみると広がるかもよ」と助言を返してくれていた。勉強にまったくもって熱心じゃなかったので、その助言を無碍にしてしまっていた自分に、いまでは怒りすら覚えるのだけれど…。
あのとき教授がやっていたのは、僕の興味関心の種を、いろんなものとの関係性を提示することで育てていこうとしていたのではないだろうか。
これと似たようなことをひとりひとりと行えたらいいのでは、と考えている。それは思考とことばを育てることにも繋がるけれど、根本的には一緒に迷っていくことだとも思う。
こういった個々人のちいさな想いを、いかに大きくしていくかの言説には溢れている。一方で、その想いをどうたやさないで抱えつづけるか、という視点は乏しいような気がしている。もちろん大きくしてもいいのだけど、それだけを性急に目指すことでかき消されていく火もあるはず。ちいさな火に手をかざしあって、守っていくような営みがあってもいい。
いままさしく、「ちいさな火に手をかざしあう」という名前で、さまざまな人とふたりで本をつくる活動をはじめている。本にしなくてもいいかもしれないけれど、ふたりで迷っていくという場を持てたらいい。
そして、「ひとりひとり」と書いてきたものの、この取り組みは少人数でも可能な気もしている。組織やチームのなかで、このように「ちいさな火に手をかざしあう」場が増えてくれたら、それは働くのが苦手でありつづけている僕自身にとっての希望にもなり得る。
図書室をやろうとしているのも、迷いあえる場を確保したいからなのかもしれない。いろんな本と出会い、それについて語れる場は迷いあえる空間だろう。
②
「死生や途方なさとの新しい関係性を提示する」とは、さまざまな物事との関係性の相手に「死生、途方もなさ」を置くことで、なにか新しい価値を見つけていくこと。
僕が働くに苦手意識を持ちつづけているのは、働く現場では「明日も明後日も、その後もずっとこの世界がありつづけているのが前提で、それを保っていくことが正義」という感覚が関係性の相手として固定されているからなのだと思う。
わかりやすいから「働く」を例に出したけれど、これはもはや「生きる」そのものに関わってくる。
なんで頑張るのか。なんで売り上げを求めつづけるのか。どうして効率を上げて、成果を出しつづけないといけないのか。それは結局、端的に言えば、「自分を保っていくのは正義」「この世界を前に進めていくのは正義」だと思われているからなのではないか。
もちろん、だからこそ生まれているものもあるし、それを否定する気はない。けれど、それとは全く異なった前提で考えてみる時間があれば、なにかが大きく変わるのではないかと思っている。
例えば仕事の場で、「いやでも前に進めたとて何の意味もないですよね???」という考え方を持ってみたとき、そこにあるさまざまな事象はまったく違う顔をするはずだ。ずっとじゃなくても、その顔を見たことがあるという事実はとても大きな影響力を持つのではないか。
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妄想を書いたけれど、これらをやっていくには、編集力、つまりはさまざまな関係性を捉えていく力が必要になる。僕はおそらく、それがかなり足りていない。
その修行のひとつとしてやっていこう…と思っているのは、言葉をしっかりと勉強してつくっていくこと。僕がかじってきたインタビュー記事や短歌を、ちゃんと学びたい。
飛躍があるかもしれないが、短歌、や「いいなと思う言葉」の裏には編集の視点が宿っているような気がしている。言葉と言葉の関係性を捉え、共通点を探し、組み合わせを変え、詩情が生まれる言葉にしていく。それってまさしく編集なのではないか。
松永さんの書籍でも、修行としては自分の関心のあることからはじめるとよい、と書いてあった。
僕はなんでか言葉にずっと惹かれている。けれど、いつまで経っても仲良くなれていない感覚があるし、言葉を生業にしている人たちへの劣等感がずっとある。(編集力どうこうとは違う視点で、この劣等感をずっと燻ぶらせているのはよくないという直感も大きいけれど)
いままではなんとなくて言葉をつくってきたけれど、改めて腰を据えて言葉を向き合っていきたい。
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8割方自分のためとは言ったものの、活動の整理で約4800字ほど書いてしまった。もはや残りの2割の方たちを無視している。読んでくれた方はいるのでしょうか。物好きな方たち、ありがとうございます。
とはいえ、バーっと書いてみた言葉たちは、結構しっくりきていて。まさしく、出会いなおした感覚がある。これらを考えていくなかで、また新しく迷えるようになるのだろうか。
「迷いつづける。出会いなおしつづける」を僕自身がやっていけたらいい。
