
※この記事は、とろ火の火守り あくつと、とろ火を面白がってくれている岸本さんとの往復書簡です。今回は3往復目の、僕から岸本さんへのお返事。
岸本さんから僕へのお手紙はこちらです。

岸本さんへ
直接お伝えもしていましたが、お返事がとても遅くなってしまいました。前回のお手紙をもらったのが2月中旬ごろ。いまこの文章を書いているのが3月下旬なので、1ヶ月以上も経ったんですね。
佐久の天気も、ラストスパートの雪が(きっと)降り終わり、少しずつ春の姿が浮かんできた気がします。身も心も縮んでしまう冬から、生命が動き出す春へ。「芽吹きの春」のよう、なにかが頭をもたげようとしている予感。
この“なにか”。どうやら、陰と陽のどちらもが僕のなかにはあるみたいで。固まっていた心がほどけると、陰も芽吹き出す…ということは、どうにも忘れられがちではないでしょうか。あたたかな陽気に照らされると、自ずと陰も生まれる。それは、もはや自然の摂理でもあると思う自分がいます。
この陰と陽は、前回僕が書いた「人が葛藤を抱える姿にこそ信頼を覚える」に繋がる話なんです。岸本さんは僕の言葉を受けて、問いを投げてくれました。
人が葛藤していることは〇〇であり、その〇〇の状態は安久都さんの△△という信頼の鍵穴(価値観や信条)にカチりとはまる。
さて、これを埋めてみようと思います。
人が葛藤していることは、「陰の部分に蓋をしていない証左」であり、その状態は僕の「“正しさへの傾倒”という引力に抗っている」という信頼の鍵穴(価値観や信条)にカチりとはまる。
陰の部分と書きましたが、これはいわゆる「ポジティブ/ネガティブ」というイメージではなく、「いまの自分にとっての裏側」といった感覚です。気付くと見えなくなってしまいがちな部分、と言えるかもしれません。
この部分に蓋をすると、楽なんです。きっと。いまの自分が揺らぐことがない。歩こうとしている道を疑わなくていい。
でもそれは、ある種の“盲目性”を携えてはじめて可能になる状態です。もちろん、単に知らなかったこと、単に気付いていなかったこと、といった盲目性もあります。ただ、「陰の部分に蓋をする」という行為は、あえて目を瞑ること。なんだかそれは、人間として大切な部分をも見えなくさせてしまう気がするんです。
「自然はコントロールできない」「制御不能なのが自然」という言い回しをよく目にします。このとき、「自然」を発話者の外に対置する視点がある。それもそうですよね。コントロール、制御という単語は、外部への働きかけを意味する。つまりは、無意識的にか「自然」と「自分」をわけている。
けれど、とろ火の読書会でいま一緒に読み進めているインゴルドの『生きていること』にも書かれていたよう、そのふたつをわけることなんてできないはずです。もっと言うと、自分と自然はもちろん、自分と他者、自分とモノ…などもわけられない。
そんな無数の糸と織り重なっている存在が葛藤しないなんて、あまりにも不自然じゃないのか。逆に、葛藤していることこそが、他でもない“その人”として生きているんじゃないのか。
読書会でもお話しているよう、この無数の繋がりを意識した生活を僕自身できているわけではありませんが、思想や言葉上ではたしかに抱えていけたらなと思っています。
***
岸本さんは、『生きていること』の読書会のとき、無数の糸を想起するインゴルドの思想の特徴として「動的なもの」とお話していましたよね。
それをふまえて、前回のお手紙を読み直していると、岸本さんの言葉が目に止まりました。
そう、愛おしさって、なんか動いている気がします。
この「愛おしさ」の先で、岸本さんは「責任」にも繋がっていました。
責任は、関係を維持したいと願う相手のための言動を、しかるべき未来に実現するため、放たれる前の弾のようなものとして自らの内部に自発的に生じたものなのではないでしょうか。
動的な関係性。この単語に連なる諸々には、大切ななにかが待っている気がする。そんな直感をもとに、少し足を進めてみようと思います。
ふと頭をよぎったのは、僕が大学で所属していた学部の名称です。僕は「相関社会科学コース」という名がつく学部に通っていました。別の学部にいわゆる「社会学コース」もあるんですが、それとは別のコースが存在しているんです。
コース選択の説明の際、両者の違いとして「多面的に」という言葉が使われていました。なにかの社会的事象を思考するとき、ひとつの側面ではなく、多様な側面から光を当てることを大切にする。そんな思想が込められた名称です。
この「多様な側面」を表すとき、「相関」という単語を使っているのがミソだったんだな…と卒業してから気付きました。
「相関」が使われている単語で最初に浮かぶのは、「相関関係」だと思います。これと似て非なるのは「因果関係」。ある2つの事象A・Bがあったとき、因果関係は<A⇒B>と一意的な矢印で表しますが、相関関係は<A⇔B>と両側に矢印が向く。
この両側の矢印は、「繋がっている状態」とも表現できる気がします。つまりは、動的な関係性。
僕の学部では、社会的事象たちのあいだでの動的な関係性を扱っていました。けれど、僕たちはお手紙を通して「自分と他者」または「自分とモノ」、「自分と世界」のあいだにある動的な関係性を考えてきたのだと思います。そして、この関係性に「愛おしさ」や「責任」という名前を与えてみた。
それは、僕たちはこの世界すべてに「愛おしさ」や「責任」を抱くことができる、という可能性になるのではないでしょうか。
…急に不思議なことを言いました。言葉が思考に追いついていないのは百も承知です。生憎ながら「ラブ&ピース」を掲げられるほど僕は真っ直ぐな人間でもないので、この言い回しには違和感もあります。なにかしらの言葉を見つけられると信じて、思考を飛ばさせてください。
先日読み終わった青木海青子さんの『不完全な司書』という本に、こんな文章がありました。
異形の者として自らと分けて切り離し、「向こう側は、こちらとは全然違うね」と言ってみたところで、影は自らの影なのです。影と自分、いつのまにかあちらとこちらが入れ替わっても、何ら不思議ではありません。
(中略)
ですから、自分はこちら側にいるという安心感は全然ありません。寄り添うと言うより自分自身の問題として、ジリジリ生身が焼かれるような思いで見つめています。
この文章は、ゲド戦記に出てくる“影”を引用して書かれたもので、影と自分をわけることに対して、鋭く柔らかな眼差しが向けられています。
もうひとつ、別の文章を引いてみます。『人間であること: 9人9色の物語』という本で出会った、九鬼周造の『偶然性の哲学』に書かれたものです。(読書メモにあったものなので、おそらく本文ママではないのですが…)
偶然性の哲学の形而上学的展望は、この現実の世界が、唯一可能な世界ではなく、無数の可能な世界の中の一つに過ぎぬとして、現実の生を動的に肯定することに存する
ここでも「動的」という言葉が出てきましたね。九鬼周造に触れていたこの本で書かれてもいたのですが、この「無数の可能な世界の中の一つに過ぎぬ」という考えは、「あなたは僕だったかもしれないし、僕はあなただったかもしれない」という考えに繋がっていきます。そして、それは他者との関わり方を大きく変える。
これは、前述の影と自分、つまりは<こちら側/あちら側>をわけることに向けられた眼差しと重なります。
もうひとつだけ、別の本を持ってきてもいいですか。上橋菜穂子さんが書かれた「守り人シリーズ」と呼ばれる一連のファンタジー作品についても書かせてください。
(余談ですが、上橋菜穂子さんの作品たちは、僕という存在を編んでいる糸のなかで最も太いかもしれません。守り人シリーズも含めて、小学生のときに出会ってから大切にし続けている作品たちです)
このシリーズの世界では、いわゆる現世界を<サグ>と呼び、精霊などがいる世界を<ナユグ>と呼んでいます。これだけだと、単なる<こちら側/あちら側>ですよね。けれど、守り人シリーズで面白いのは、“このふたつの世界が重なって存在している”ということなんです。
重なっているからこそ、<サグ>で起きた事象は<ナユグ>にも影響を及ぼすし、逆もまた然り。
作者の上橋さんは、こんな文章を寄せています。
この物語を書くときに、心のなかにあった大切なイメージは、異界が、人の生きる世界に近々と重なって存在している世界のイメージでした。
ふつうの人々には、確かには感じられない ── しかし、そこに確かに在る異界。 人にとっては、<精霊>や<神>に思える存在がうごめく異界と、人の世界がふれあうときに生じる不思議……そういう物語を書いてみたい、と思ったのです。
偕成社 守り人シリーズ特設ページより
あちらとこちらをわけるのではなく、重ねたものとして描く。それは、世界にいる自分にも重なったなにかがあるということ。この視点は、青木さんにも、九鬼周造にも連なっていると、僕は感じています。
行ったり来たりして、長々と書いてしまいました。目指していたのは、僕たちはこの世界すべてに「愛おしさ」や「責任」を抱くことができる、という違和感の残る言い回しについて考えること、でしたね。
ここで書きたかったのは、動的な関係性を突き詰めたときの“繋がり”です。すべての事象・事物と自分は、時代も次元も超えてなにかしらかの糸を通して繋がっている。そんな関係性に「愛おしさ」があり「責任」がある。
…うーん。段々と地面から足が離れてきましたね。けれど、先ほど引用した諸々の言葉からは「愛おしさ」を引き出すのは難しい気がします。なにかもっと別の、“いま”にも重なる言葉があるはず。そして、先に正直にお伝えすると、代わりとなる言葉はまだ見つけられていません。
いのち、すべてとの繋がり、縁起的、コスモゾーン(手塚治虫が『火の鳥』で描いた用語)などなど。「そうなんだけど、そうじゃないんや…」となってしまう単語は見つかるんですが、なんだか、どれを選んでも宙に浮かんでしまう感覚があるんです。
うまく着地できず、「愛おしさ」や「責任」に連なる、または包含する大きなものがあるはず…という直感を書き残すだけになってしまいました。とはいえ、言葉は下手すると静的なものになってしまうので。動的なものを眼差している以上、端的に表現できるものではないのかもしれませんね。
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自分への言い訳を述べたところで、岸本さんが投げかけてくれた「つくりはじめること」について考えて終わろうと思います。
パッと頭に浮かんだのは、抗うこと、でした。抗うために、つくりはじめる。
でも、なにに抗うんだろう…そう唸って辿り着いたのは、「自分が世界の一部に取り込まれていく流れ」です。長々と書いてきた世界観と逆行していますね。世界と繋がっているんじゃないか、と書いてきたにもかかわらず、それに抗うとは。
好きな本の副題につけられた言葉で、「一丸となってバラバラに生きろ」というものがあります。矛盾が同居していますね。一丸となったらバラバラとは言えませんから。でも、この矛盾を抱え続けることが大切な気がする。
一通目のやり取りで言及した、ゲオルク・ジンメルという社会学者の<分離>と<結合>との両義性とも繋がってきますね。伏線回収でしょうか。
ここでいう<分離>としての営みが、つくりはじめること、だと思うんです。たしかに、つくることで他者や世界との関係性を結び直せます。だからこそ、愛おしさや責任という言葉が導き出されてきました。でもやっぱり、その発端、糸の始点は他でもない“自分”が色濃いのではないか。というより、色濃くないと「つくりはじめる」にはならないのではないか。
渡邉康太郎さんの『コンテクストデザイン』という大好きな本にこんな文章があります。
これから帰る家族のためにお湯を沸かす。一見とるに足らないように思える小さな行為も、また一つの作品たりえるのだ。
生活者は誰もが作家である
ここでは、作品のことを「他者に影響を与える鑑賞・解釈・創作の一連」と表現しています。これって、「つくる」という営みそのものではないでしょうか。
そして、その営みが生み出されるのは他者・世界・他の作品…などなどの刺激を受けたとき、“自ら”が浮かび上がったときだと僕は思っています。浮かび上がった“自ら”を、どうしてもそのままにしておくことができず、なにかを「つくりはじめる」。
逆にいうと、つくりはじめないと自分は世界に溶け出していってしまう。その流れへの抗いに、つくるという営みの発端がある。僕はそう信じているかもしれません。
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なんだかいつもよりも散らかった文章を書いてしまった気がします。でも、僕の書いたものから少しでも“岸本さん”が浮かび上がり、そこから岸本さんの言葉が生まれると願って。
3往復目も終わり、ずいぶん遠くへと来た気もしますし、同じ場所でぐるぐるふたりで踊っている気もします。季節の移ろいを感じつつ、僕たちも移ろっていきましょう。