
この記事は、12/8に開催した「死や生におろおろする読書会 『コンパッション都市』 第3回」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
今回読んだ章では、コンパッション都市が持つ社会的性格と、その実現を阻みうる諸々の障壁について語られていた。
要は、死や喪失を包含した社会はどのようなものなのか、そして、そうじゃない社会はどういったものなのかについての章。
これらを読んで、個人的に頭に残っていたのは「脆弱性」への言及だった。
例えば、こういった言説。
シールが主張するところでは、身体化のこのような脆弱な条件、つまり有機体としてたやすく死を迎える可能性こそ、すべての社会・文化的活動を背後で支える、主要な原動力である。脆弱性のこうした自覚があるからこそ、合理・科学的言説がますます普及し、影響を深めているにもかかわらず、大半の人びとは、私的な意思決定や態度を導く指針として、非合理・宗教的な知識も活用するし、また支持するのだ。
p154
もしリスクそれ自体の最終的な行く先が死であることが認識されていないならば、「リスク社会」にはなんの意味もない。
p168
(中略)
こうした壊れやすさが集団や個人の消滅可能性を指示しているという認識を欠けば、脆弱性の理論など意味がなくなる。
脆弱性。集団や個人の消滅可能性。当たり前だけれど、死や喪失を支え合うようなコミュニティでは、脆弱性/消滅可能性を認識せざるを得ない。そうでないと、なくなった人々、死にゆく人々、現状は問題なく生きている人々を結びつけるものがなくなってしまう。
社会的連帯の事実 ―― これがコンパッションの社会学的意味である ―― は、死と喪失の普遍的性格に対する関心を内包しており、またコンパッション都市の要でもある。
p168
脆弱性とは、脆さだ。脆いということは、容易に不安定になるということだ。それは、ゆらいでいるとも言える。
この脆さは、物理的なものだけでなく、精神的なものにも宿っている。
コンパッションに導かれたアプローチをとるということは、アイデンティティと記憶がいずれも、高度に選択的で社会的に構築されたものであるということを認めることである。
p203-204
(中略)
したがってアイデンティティと記憶は、可変的で複雑な性質をもつことをあらゆる場面で認識しなければならない。
ゆらぎの存在を前提にしていくことは、僕が「とろ火」の活動で大切にしようとしているものとも重なる。HPの最初に「迷いつづける。出会いなおしつづける。」と書いているよう、“その人”というものは、その瞬間瞬間にはたしからしさがあるかもしれないけれど、絶えずゆらぎつづけるものだと捉えているからだ。
そう考えると、コンパッション都市で眼差しているコミュニティや関係性は、「ゆらぐことができるコミュニティ/関係性」なのかもしれない。
―――
こういったはなしをしていて、会のなかで出てきたのは「大きなコミュニティのなかで、人はゆらげるのだろうか?」という疑問だった。
「ゆらぐ」とはなんなのかを考えないといけないけれど、いったんは僕の言い回しを借りて、「迷いつづけ、出会いなおしつづけること」と仮定してみる。このとき大切なのは、きっと“つづける”と書いていること。
アイデンティティや記憶、思考、思想…などなどを迷いつづけ、出会いなおしつづける。
個人的に、こういった体験ができるのは、極少数での集まりに限られてきた。大人数の対話の場などにも参加したことはあるけれど、どうもしっくりこなかった。
もちろん、個々人の性格だったり場のしつらえだったりで変化するかもしれないけれど、あまりいい記憶は持っていない。
なぜなのか。会のなかでぐるぐる話していて出てきたのは、「信頼関係」「自分の深いところを出せるかどうか」などなど。当たり前だけれど、気心が知れた人たちであったとしても、例えば3人で集まったときと、10人ほどで集まったときとでは、内面を話そうとする心持ちには変化があるはずだ。
迷うということは、自分のなかで答えはでないけれど抱えつづけている、大切ななにかがあるということ。そして、それを場に出し、さまざまなやり取りを重ねることで、そのなにかに出会いなおす。だからこそ、場に出すことにはハードルがつきまとう。逆にいえば、ハードルが低いものを出したとて、迷えないし出会いなおせない。
武装がなければないほど、きっと迷い、出会いなおすことができる。そんな、武装をしあわないコミュニティ/関係性は、どうしても少人数のものになる気がする。
その点において、本書『コンパッション都市』で眼差そうとしているコミュニティは、広すぎるのではないか…と感じている。
これも会のなかで出てきたけれど、「人間、もっとどうしようもない部分だってあるんじゃないか」というはなしもあった。もちろん、「誰もが死にゆくんだ」と、みなが武装せず、ゆらぎあえる状態になったらよいとは思う。けれど、綺麗じゃない部分も合わせ持つのが人間だろう。
むしろ、そういった部分さえも見せあえてはじめて、ゆらぎあえるようになる。けれど、それは“他の人には隠しているけど、ここでは見せている”という状況によって可能になるのであって、あけすけに秘密をなくせばいいわけではない。そして、どれだけ腹の奥底を見せあったとしても、どうしたって分かち合えないものだって、個々人には残らざるを得ない。
僕はそう思っている。
では、本書の著者は、人間をどのような存在だとみなしているのだろう。前回のレポートでも書いたけれど、どんな社会もコミュニティも、糸をたどっていけばひとりひとりの人間がいる。だとすると、社会を捉えようとするときには、人間観を携えていないといけないのだと思う。
僕の人間観では、上記のように感じてしまう。だからこそ、社会やコミュニティ、システムなどの広い視野の議論にはうまく入っていけないのだろう。
けれど、これは良い/悪いのはなしではないはずだ。どうしても社会やコミュニティに入っていけないからこそ、隙間隙間に息をできる場所を差し込んでいく。そんな動き方だってあるのかもしれない。
コミュニティや社会と、そうとは呼べない少人数の集まり。きっとどちらも必要なのだと思う。
本書の議論を読むなかで、どことなく異なりが浮き彫りになってきたのが面白い。
