
本記事は、死や生についての個人の語りを記録した文章です。一部、心が重くなるシーンが記される場合もあります。どうか無理なさらず、触れられそうなときに触れていただけたら幸いです。
また、あくまでも個々人の感覚を記したもので、一般的な思考を表したものではございません。また、プライバシーの観点から、内容を一部変更している場合もあります。
生と死という途方もないものを語った、たったひとりのことばとして、受け取ってください。
死と生について、ですよね。あんまり、ね、人に話すトビックではないし、なんなら家族にも特別こういうことを話すことはない。自分のなかで考えたりすることはあるけど、でも、言葉として誰かに伝えたりもないし。話してるうちに、どういうことを最終的に話してるのかなっていうのは、ちょっと好奇心的に気になるなと思いながら。
あんまりそういうのを考えてはなかったんですけど、これまで。お誘いをもらってパッと浮かんだのは、4年前ぐらいかな、祖母が亡くなって。ちゃんと物心がついてから、身近な人が亡くなったのはそれがはじめて。幼稚園のときとかに誰かが亡くなるみたいなのはあったけど、ちゃんと大人になってからははじめてだったんで。そのタイミングで、誰かが死ぬとか自分が死ぬみたいなことは考えたりとかして。
4,5年前だから、ちょうどコロナがわさわさしてるとき。そのときから感じはじめてるのは、結構すぐ、死んじゃうなって。死んじゃうっていうか、どのタイミングでいなくなるか。いなくなるというか、話せなくなるか、その人と会えなくなるかみたいなのは、結構わかんないし、唐突だな、っていうのはすごい感じて。常にずっと考えてるわけではないけど、ふと、やっぱり考えることはありますね。
これが家族との最後のコミュニケーションになるかも、みたいな感覚をふと感じたりとか。自分のね、パートナーに対して感じたこともあるし。そうやって、なんか、ふと思うことは、そのときから出てきてるっていう感じですね。
祖母は病気がちではあったけど、大病患ってるとかではなくて。ちょっと体調崩して、入院したら良くない方に行って。なんか危ないらしい、みたいに家族から聞いたら、そのままいなくなって。コロナの時期がね、あんまり移動できなくなってたみたいなところもあって、結局、もう1年半とか2年ぐらい会ってなくって。最後、会えなくて。病院にも入れるわけじゃなかったんで。だから、会えないまま、すっといなくなっちゃったみたいなので、割と後悔はしたし。うん、ちゃんと家族とか大事な人には会っといた方がいいな、みたいなのは、そのとき感じて。
さみしさ。うん、そうですね。もう話せない。いなくて悲しいっていうかよりかは、ね。もうずっと会えない、みたいな方が。悲しいのかどうかよくわかんないけど。会えないなって。さみしい気持ち。
ちゃんと亡くなったなって。ちゃんと亡くなったっていうか、なんかね、元に戻せるものじゃないし、それを代替するものもなくて。祖母っぽいものが、もうつくれるわけではなくて。すごく、そういうさみしさがあるかもしれない。もうね、会うこともないし。話せることもないし。
ちゃんと、自分の身の回りから、自分と関係があるものから消えてしまった。消えてしまったっていうか、思い出せるけど、もう一回会えることはない。
喪失感をね、自分も感じたし。だから、それをね、自分の他の家族とか、パートナーとかに置き換えたときにも。しかも、それは結構唐突に起こるかもしんないし。なんならね、自分がいなくなって、相手にそういう感情を与えてしまうかもしれない。すごくその、突然消えてしまう感じっていうのは、感覚的に持ってしまうようになった。
うん、普段も感じます。基本的には、良くないことっていうか、家族に会いに行こうと思ってたけど、なんか用事があって行かなかったときとか、パートナーをどっかに送っていって、あんまりいい感じの雰囲気じゃなくて、そのまま別れてしまったときとか。そういうときにふと、そうか、これでどっちかがいなくなったら、そっかぁ、すごい後悔するな…みたいなのを反省として持つっていうか。そういうときに、ふと思うって感じです。
この感覚は、結構強くなってるかも。他人に対しての気持ちが強くなってる。自分がいなくなるかも、みたいな、いなくなって相手になにか思わせるか、みたいなのが最初はあったけど、それは今はもう感じなくて。どっちかというと、他人に対して。これがこの人との最後になったかもしれない、みたいなのを感じる。
子どものころ、か。死については、そういう誰かがいなくなるみたいな体験はなかったんで、どっちかというと、別にわかんないものとして。生まれる前の感覚もないし、死んだ後の感覚もないし。僕には、生きてる人には、理解できない世界。その世界があるのかも知らない。あるとしても、そことは絶対コミュニケーション取れないわけで。だから、結構別のものとして。繋がりがあるものとしてはあんまり考えてなくって。理解できないものだった。なんか、それはそれっていうか。
だから、少なくとも生きてる間にできることは、生きてる間にしかできないから、それをちゃんとやろうみたいなタイプではあった。考えるっていうよりかは、どっちかというと、生きてるっていうところにフォーカスするみたいな生き方はしてて。
生きてるって感覚があったわけではなくて、でも、生きてる人同士では話すこと、コミュニケーションができるし、今の自分が知れる、わかることができる。そういう世界に今いるから、どっちかっていうと、知れる範囲のなかにあるって感じ。そこはたくさん知っていきたいっていう、好奇心的なものもあるっていうのは、多分、ベースとして。
だから、僕自身はあんまり、昔から想像とかでどうかするみたいなタイプではなくて、そもそも目の前にあるものとかが好きなタイプ。こういう世界があれば、っていうよりかは、目の前にあるものでやってみる。やってみるっていうか、試してみたりするっていうタイプではあった気がしますね。だから、多分、自分の手の届く範囲のものをどんどん手に取って、自分の体験にするとか、知るとかを繰り返していくタイプではあった。
だから、死とかについては届くものではないので、あんまり考えることはない気がします。
いまはね、割と近い人が、ちゃんと生きてるところから死んでしまったから。それで若干、届く範囲に行ったというか。子どもが別にいないんで、生まれる前とか、その人がどう在るかっていうところは、あんまりよくわかってない。よくわかってないっていうか、別にいったんいいかと。起こったら起こったで、多分考えるんですけど。
祖母の死は実際自分の身に起こったことだし、そういう過程で亡くなっていくんだ、っていうよりかは、こういう感じなのかって。だから、割と、死を未来のものっていうよりかは、うん、結構近いものに感じてんのかもしんないです。
自分がいなくなるっていう怖さよりかは、自分がいなくなったときに、周りがどう思うか。少なくとも僕はそれを感じたんで。誰かがいなくなって、自分がどういう感情になったかっていうのはよくわかったんで、自分がいなくなることとか、自分に対して向いてるわけではなくて。そう、僕がいなくなることで他人がどう思うかっていう方が。どっちかというと、そっちに向いてるって感じです。
あんまり恐怖的なものは感じてないけれども、自分の死に対して恐怖を感じてないけど、仮にいなくなったときに、近い人たちが悲しむことは簡単に想像できるので。そういうことにはなってほしくないなと思って。そういう意味で、自分の死を拒否するっていう。そっちの立ち位置ではありますけど。
さっき言った後悔みたいなことは、誰にもはなしはしてないですね。そんなに深刻に捉えてほしくない。別に、それをずっと考え込むわけでもなくって。その瞬間に、今なんか良くないことをしたなと。でも別に、そうなったからといって、自分の行動が大きく変わるわけではないですけど。ちょっとずつ、自分を見直していくだけ。その反省がちりつもになっていく、かもしれないなくらい。
でもたしかに、強まってる。考える回数が多い。多いっていうか、積み重なっていってるからかもしんないです。
生きる意味は、結構考える。生きることに対しては、自分がどう生きるかに繋がっていくので、割と考えるものではあって。どうやって生きるというか、なんだろう、生活するモチベーションが低いっていうか、僕。なんだろう。うん、なんかやることがあったらやるし、それは仕事とかでもそうなんですけど、目の前になんかやらないといけないことがあったらやるし、それを淡々とできちゃうタイプ。
これがやりたくてやるっていうときも、もちろんあるんですけど、でもそうじゃなくて、やらないといけないことがあったらそれはやる、っていうタイプ。っていうとこもあって、割と自分がモチベーションが上がんないっていうか、そもそもモチベーション上がりづらいタイプだしっていうのもあって。
じゃあどういう仕事をしようかとか、考えたとき、例えば、自分自身でどう生きるかみたいなこと考える最初のきっかけは、多分、高校卒業してどういう大学に行くか。で、次が就職活動するみたいなとき。そのタイミングとかで、自分がどうやって生きていこうかみたいな。生きていこうかというか、自分がこの星の元に生まれてるっていう感覚を自分のなかで持てないと、結構惰性で生きていってしまう。活力が生まれない。
なので、そういった意味で、どういうふうに生きていくかみたいなとか、どう自分が在るかみたいなところは、よく考えるかな。
惰性で生きるのが嫌というか、それで多分生きていけちゃうから、おそらく。あんまり自分がそれを幸せに感じないっていうか。僕が生きてるなかで、幸せを感じる、幸せっていうか、多幸感って言うんですか。ああいうものを感じるときって、リラックスしてるときとか、自分の好きな空間にいるときとか、そういうゆっくりしている時間っていうより、結構刺激が入ってる時間。どっちかというと、アドレナリンに僕が幸せを感じるっていうタイプではあるんで。ちょっと自分に刺激を与えていかないと。あんまり幸せを感じないタイプ。
だから大学も、知り合いがあんま、っていうか、ほぼ誰もいないところに行ったし。海外に行くっていうときもそうだし。そういう風な身の振り方をしていく、っていうことが、ちゃんと自分の幸せ。幸せとまでは考えてないけど、自分の機嫌を取ってあげる方法っていう感じがあるんで。
だから、惰性で生きていけるけど、いい気はしていない。座りが悪い。だからといって、なにか嫌になったりとか、塞ぎ込んだりとか、多分しなくて。惰性で生きていたとしても。
さっきの「この星の元に生まれてるって感覚」は、ルーツ的なものとか、自分の両親がどういう仕事をして、自分がどういう環境で育って、で、その後の人生でどういう人たちと出会って、経験をして、今があって、みたいな感じ。その経験、体験をしてるのは、自分しかいないわけなんで。そう考えると、それだけでも、すごいスペシャルなこと。それを拾ってるっていう感じですね。
自分の両親がどういう仕事をしてましたか、とか、その感覚がありながら、これまで出会ってきた人たちとの体験とかも重ねていくと、もう自分はこういう風に行った方がいいだろう、っていうか。だから自分はこう考えているのか、みたいなところに落とし込まれるっていうか。
で、そうすることで、ちゃんと自分がこの道を進もうみたいに決められて。そうすることで、惰性じゃなくなる。割とそういうものを自分の才能としてとらえて。才能っていうか、僕と同じ感覚を持ってる人は多分いないから。その感覚を持ってなにかをすることは、それだけで意味があること。
そもそも、別に、いるだけで、いるだけっていうか、今ある自分がちゃんと才能があって、それをちゃんとまた生きていって、で、他の人の人生の、同じようなポイントになっていって、それがまた誰かにちょっとでも継承されていく。僕のぼやっとした世界のなかで、なんか持ってる感覚。
僕も誰かの意志を継いでいたりとか、どっかの生きた土地とかのなんか歴史をつないでいたりするし、それがまた誰かの体験、人生に繋がっていくわけだし、っていう感覚が持てたときにやっと、自分が、だからこういう風に今いるんだとかって。しっくりくる。うん、しっくりくる。
だからといって、別に自分がこう進むべきっていうよりかは、少なくとも今ある時点でどうかな、みたいなだけで。その先のことに対しても、もちろん考えはしますけど。なんかね、偶然というか、わからないものがあって、それはそれとして受け入れながら。そう考えると、どっちかって言ったら、僕にとっては割と今だけが大事なのかもしれないです。
うん、大学進学のときもそういう感じはうっすら。どうやって、どういう風に進もうかって考えたときに、ちらっと感じたのかな。
いつから考えてたんだろう。わかんない。それは別に、こういう体験があったから考えたとか、そういうわけではない気がするんで。生きてるなかで気づいた、自分の気をよく保つための、健康にあるための方法の話なのかもしれないです。
他の人に対してもそうですね。僕のなかでは。その人がどう考えてるかはあれですけど、僕のなかでは少なくとも、なんか、僕がこうやって話していることも、なにかね、その相手の体験になってるわけですし。ちょっとでも関わったことがある人たちっていうのは、少なくともそうだし。それは、又聞きでも一個あるかもしれないし。っていうのを考えると、自分がいることも、それなりに人の人生に影響してる。
こういったこと、誰かに話す機会はないですね。あんまり話してもな、というか、あくまでも、さっきも話した機嫌の取り方の一つではあったりはしますし。自分が死ぬことに対しても、どっちかというと、話して誰かに共感をしてもらうようなことでもないし。多分あんまり、これを知ってもらいたいっていう欲がないんだと思いますね。話したところでっていうのもあるかもしれないし。
そこは多分、自己完結していく部類になっているんで、僕のなかでは。誰かの考えを聞いて、それで自分の考えになんか組み込むっていうよりかは、割と僕が健康にいるための方法だし、それは僕が一番よくわかっているし、こういう感覚で別に生きていることを誰かに伝えたとしても、それは僕のはなしではあるので。うん、そんなに変わらないことかなと思うんで、そういう意味で、多分あんまり話すモチベーションがないんじゃないかなと思います。
死についてはやっぱり、僕が想像していた以上に、人間は結構すぐ死んじゃうなって。なんか、うん、死ぬっていうこと自体は、割とシンプルなんだなって思った。そんなにずっと、同じ状態が続くわけではない。割と。祖母も、あんまり前触れもなく亡くなってはいるんで。で、自分の身にも、それはいつ起こるかわかんないし。他人でも、それはみんながいつ起こるかわかんないっていう。なんか、そういった意味で、若干そこの怖さというよりかは、自分の生きることができる時間が限られてるというか。限られてるし、それは割と近いっていうのは、そのときにただ感じたこと。
死んでしまうことは、大変になって死ぬこともあるかもしんないですけど、でも、最後は結構、普通にシンプルに死んでしまうっていうのがあって。シンプルっていうか、シンプルって言っていいのかはよくわかんないけど、でも、割とあっという間。それこそね、容態を聞いて、慌ただしくなってもう、みたいな。聞いてからも、別に一日はね、そんなんとは関係なく、僕の一日は勝手に過ぎていくわけですけど、それが何日か経ったら、死んでしまった。
すごく、なんか、突然。突然というか、急に起こることなんだなっていう感覚が。先が見えてるとわかりやすいのかもしんないですけど、僕が80歳まで生きるか、60歳までなのか、100歳までなのかっていうのは、わからない。それはきっとね、目の前に迫ってくることもあるかもしれないし。生きることができる時間の最後が、なんか割とすぐ近くにはあるのかなっていう感じは、そういう感覚は持つようになった。割と早い、早いなって。
それは多分、祖母が亡くなってから持つようになったと思う。それこそ、僕がこの帰りに事故して亡くなってしまったら一瞬ですし。わかんないです、それは。そういうのは、だから、常になんか同居してるっていうか。すぐそこにいるなっていう感覚は持つようになりましたね。
別に、そういう感覚を持ったから、僕の行動がなにか変わったとかでは全然ないんですけど。なんかあるのかもしんないですけど。そこを自分で深掘りをしてるだけなのかもしれないし。でも割と、常に自分がいなくなることを、こう、持ちながら生きてるんだなっていう感じはしますね。
さっきのルーツを拾う、みたいなのは、機嫌を取る方法でもありながら、多分自分の世界の見方とか、捉え方みたいなもので。そういうところは若干変わってると思ってて、そういうタイミングとかで。いろんなものが、自分自身も、いろんな人たちとか、ものに影響を受けているのも一緒で。身の回りのものと、いろんな関係を持ちながらそこにあるっていう感じ。そうやって偶然ある世界、ってぐらいの感覚は持ったし。
だから、そういった意味では、世界のある程度の循環というかサイクルのなかで生きてるんだなっていう感覚は、自分の身近な人の死っていうところと、自分のこれまで機嫌取りにやってきたこととかが重なってとかして、多分そういう感じになってるかもしんないですね。
うん、自分は変わっていく。割と、変わって当然ぐらい。こうやって話してるなかでも、多分自分のなかで、また新しい気づいたこととかが出てくるわけだし。それを踏まえて、そしてそこにあるものによって。
僕は多分、考え方とか、さっき言ったどう自分があるかみたいなところは一貫としてはありながら、自分のテンション感とか、態度とかっていうのは、その時々によって変わって当然だし、むしろ、そこにマッチする形っていうか、そういう風に変えていきながら、いろんな場面で過ごしている気はしますけどね。
偶然を楽しむっていうよりか、受け入れないっていうのはしないように。基本的には受け入れるっていう感覚。それを楽しんでるっていうと、なんかね、全部ポジティブに変えられるみたいに。そうではなくて。それこそね、悲しいことが起こったとき、そういうことが起こっちゃったなって。起こるよなって感じ。
なんかね、ずっとポジティブにいるわけでもないし、落ち込んでるときとか、なんかに対して怒ってるときもあるし。基本的には、生きてるなかで、意図してネガティブな方向に感情は向かないようにはしようとはしてますけど。でも、そっち側に振れちゃったとしても、まあまあ、それは仕方ないものとして受け入れているっていう感じですね。
身を任せてるとは違うんですよね。割と選んではいる。選ばないと、さっき言ったみたいに惰性で生きちゃう。だから、決断はする。でも、そういった意味だと、自分がどうあるかとか、どう生きるかががぶれないようには、生きてるわけなんで。そこに合わないような行動はしないようにはなってると思います。そこは、多分そうなりそうでも、拒否したりとか。うん、それはやるようにしてるはずなんで。結構流れに身を任せてって思ってるときもあるけど、多分そうしたらね、最初言ったみたいな、割とスイッチ切って生きていけちゃえるんで。多分、どっちかっていうと流れの方を拒否してるかもしれない。流れる方をもしかしたら拒否してるかもしんない。
ほんとは惰性で生きていけないかもしんないですけど、感覚的にはできる。だからそっちに行かないように。それはそれで、別に生きているんでしょうけど、それはわからない。あんまり座りは良くないけど、それは。
だから、新しいものを知ったりとかすることで、割と楽しめてるのかなっていう気はしますけどね。好奇心とかね、いろんなこと知るのが楽しいっていう感覚。
なにが楽しいんだろう。なんか、多分、進化してる感がある(笑)。進化してる感を感じれてる。僕が身一つでできることはすごい限られてるし、覚えられることも限られているけど、なんか極力ね、いろんなことはできるようになるといいだろうし。なんか、ちゃんとできそうなキャパを極力満タンまで持っていきたい。それこそ、ワクチンとかも臆せず打てるタイプなわけで、僕は。進化したと思っちゃうわけです(笑)。
キャパをフルに持っていってどうしたいかはわかんない。上げる余地があるなら上げるでしょ、みたいな感じは若干あって。僕、攻殻機動隊(※)とか好きなんです。ああいう世界。ああいう世界というか、自分がロボットになっちゃっても、もし仮にそれができるならなってもいいのかなって。なんか、できる限り進化したい欲が若干ある。なんでしょうね、これは。
※士郎正宗による漫画作品、および、それを原作としたアニメ作品。生身の人間、電脳化した人間、サイボーグ、アンドロイドなどが登場する高度情報化社会を舞台にしている。
うーん、それでも死とかわかりっこないものは、あんまり知りたいとは思わない。確かに進化しそうですけどね。いや、でもあんまりそれはなんないです。そういう世界があるってわかれば、それこそ、仮に死後の世界があって、そこと普通に今の自分がコミュニケーションをとったりとか、どういう状況が向こうにはあるっていうのがわかったら興味は出てくる。でもそれは、多分生きてる状態の感覚ではたどり着けない。なので、あんまり考えない。考えないっていうか、興味がない。
自分がいなくなっても、自分の死に対してじゃなくて、残ってる人たちの、生きてる世界がどうなるかっていうことを考えてるんで。うん。だから、自分が死んでどうこうとかは全然。今の世界がどうかっていうぐらいしか関心はないかもしれない。ちょっとでも分かれば興味は出るかもしれないですけど。
さっきのね、進化するもそうですけど、好奇心で知らない世界を知るっていうのは、どっちかというと、わかりそうな範囲で、この生きてるなかで到達できそうな範囲でのことでしかないんで。そこには強く関心はあるんですよね、極力知ってたい。
うん、確かに生きていることにフォーカスしてる。フォーカスっていうか、その枠でしかあんま見てない。でも、だからとはいえ、別にね、自分が死んでいいとは思ってない。死んでいいっていうか、なんだろうね。色々知りたいことはあるかもしんないですけど、別に危険に身をさらしはしない。
多分、いろんなこと知ったり、体験したり、自分の体を変えたりとか、それこそ鍛えたりとかもそうだし。そうすることで、また自分の一個違う繋がりを見つけられるかもしれないし。そうすることで、多分、自分の状態がよく見える。どういう自分の輪郭があるかっていうのが、多分、より強く見えるからこそ、知りたいっていうのもあるのかもしれない。そこをはっきりさせたいのかもしれません。
ちょっと自分とは外れますけど、他人に死んでほしくないっていう気持ちは、だから持ってる部分はありますね。割と自分にフォーカスしながら、自分の家族と身近な人たち。自分の死に対しても、あんまり恐怖とか感じないですけど、他人がいなくなることに対しての恐怖みたいなのは、若干あるかもしんないですね。いなくなったら喪失感が出るんですけど、それまでのところは多分、どっちかというと怖さが。死に対しての恐怖みたいなところで言うと、自分っていうよりか、他人がいなくなる恐怖。
さみしさみたいなものがあるかもしれないです。あんまりさみしくなりたくない、自分が。だから、死っていうよりか、そっちに対しての恐怖。自分がさみしくなることに対しての恐怖。
こういうことって、あんまり集中して考えたことがないっていうか。死について考えることがあったり、自分の生きることに対して考えたりっていうのはもちろんありますけど、こうまとめて考えると、また、違う感じが見えてくるっていう。思ってたよりも自分の人生にこだわってはいるなって。こだわってるっていうか、もうちょっと考えていないつもりだったなぁ。
【なぜ在るのか–死生観をたずね歩く–】
みなさんの“死生観”を聞かせてもらい、書き残していく活動です。文章は、すべて匿名で公開予定。
死生観と言われると身構えてしまうかもしれませんが、おはなししながら浮かんできたものを見つめていくので、形となっている思考がなくても大丈夫です。
「子どものころ、“死”についてどう思っていましたか?」などの投げかけからはじめます。
糸の端っこから、少しずつ、少しずつたどっていけたら嬉しいです。
もしおはなしを聞かせてくださる方がいらっしゃったら、下記のフォームからご連絡いただけますと幸いです。
https://forms.gle/TBRW868R2ar9YkpGA
