
本記事は、5/6に開催した「おろおろする死生学読書会 『誕生のインファンティア』第二回」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
次回は5/20の20時から。下記のイベントページをご覧ください。
https://orooroshiseigaku.connpass.com/event/354740/
第一回のレポートはこちら。
https://torobibook.com/seitoshi/250423/
今回は第二章となる「赤ちゃんはどこから来たか-誕生の謎」を読んだ。
これは、誕生の謎についてのさまざまな語りが記されている章。たとえば、小さい頃に「どうやって子どもは生まれてくるのか」と母親に尋ねた学生、帝王切開の傷を見せてもらったはなし、見事なまでにはぐらされた記憶…。
そのなかで詳細に分析されているのが、フロイトの論文「ある五歳児男児の恐怖症分析」に出てくる五歳の男の子ハンスの語りだった。
ハンスが3歳半のとき、妹ハンナがうまれる。その際、ハンスは赤ちゃんをコウノトリが運んでくると大人から聞いていた。それを信じつつ、病室で陣痛に苦しんでいる母を見たことで、コウノトリが本当に運んでくるのか、という不信が芽生える。
その信/不信のあいだで、ハンスはさまざまな考えをめぐらせていく。ハンナをコウノトリが運んだとしても、じゃあコウノトリのところに運んできたのは誰なのか。コウノトリのところの前、ハンナはどこにいたのか。
妹ハンナはどこから来たのか。いつコウノトリの箱に入ったのか。ずっと前、「とっても長い前」。ずっと前のどこかに「最初」が予感される。妹ハンナの「起源」が予感されている。「いなかった」のではない。妹ハンナは「いなかった」のではなく、見えなかったけど、どこかにいた。
p69
(中略)
「いなかった」に吸い込まれてしまうのではない。<無かった>ものが<在る>ようになるのでもない。「とっても長いずっと前」の中に消え去りながら、しかし決して「いなかった」に回収されることのない、漸近線のような地平である。
科学的知識を持っていない五歳児の、必死の探究。そこから生まれてくる言葉自体が興味深い。そして、この探究や言葉が生まれてきたのは、父親がハンスに寄り添い、丁寧に記録するほど興味を持っていたからだ。
本書では、「コトバで構成された大人の世界≒世界が分節された位相」と「インファンティアという子どもの世界の不思議≒世界が分かれていない位相」にわけて論じている。
この後者、子どもが生きているインファンティアの位相は、「シャボン玉のように一瞬きらめいて、すぐに消えてしまう」。
その代わりその輝きを大切にしてくれる大人がいると、子どもたちは、驚くほど深く、不思議の世界に降りてゆく。
p63
読書会のなかでも、この「不思議を不思議として大切にしてくれること」について話題にあがった。
おそらく、みんな子どものころは不思議で満ちていたはず。けれど、一緒に立ち止まってくれる人がいないと、「これは不思議なことじゃないんだ」と思ってしまうのではないか。それが重なると、フィルターのようなものが厚くなっていって、不思議さを感じなくなっていくのではないか、と。
知識を仕入れて、わかった気になってしまうことも、このフィルターのひとつだと思う。「わかる=分ける」と言われるよう、なにかをわかるとは、世界を切り分けていくこと。そのさきでは、うまく語ることのできない、インファンティアの位相は姿を隠してしまう。
じゃあ、知識を仕入れることや、わかろうとすることはよくないのかというと、そうではないと思う。
会のなかで、「言いにくいんですけど」と大事なはなしをしてくれた流れがあった。僕は、1歳半になった子どもの存在に触れて、「この人はなんでいまここにいるんだろう」と呆然としているのだけれど、それを聞いた人が「ある人がここにいるのは、その親御さんの生殖行為の結果じゃないですか。明確な行為の結果だから、死と違って、誕生はうまく不思議がれないんですよね」とはなしてくれた。
たしかに。僕は子どもの存在を不思議がっているけれど、それは明確な行為の結果であるのも事実。その知識を、僕も持っている。それでも、不思議はある。
この感覚を、立ち止まってもらいながら、しどろもどろにはなしていく。少年ハンスにとっての父親じゃないけど、不思議に立ち止まってくれる人がいるから、不思議の世界に降りていけるんだなと感じる。
さまよいながら語ったなかで、キーワードになりそうなのは「実感」だった。
受精卵が細胞分裂して人間になっていく…というのは知識として持っている。妊娠期間中、キノコみたいな謎の物体に、少しずつ手足や顔が生まれてくるのもエコー写真などで見てきた。
けど、「細胞分裂して人間になっていく」という知識と、「少しずつ手足と顔ができていく」という眼前の存在が、まったくもって一致しない感覚があった。「いや、そうなのはわかってるけど、あの物体が人間になっていくってどういうこと???」と毎回変わっていく写真を見て思っていた。
別に、細胞分裂の仕組みを知りたいわけじゃなくて。なんていうんだろうか。知識として持っていたものも、いざ目の前にすると、知識というコトバだけでは到底語り尽くせないものがある感覚。
ここでの「どういうこと?」という僕の疑問は、答えを求めていないんだなと気づく。本書にも、疑問を繰り返す子どもについて、こう記されていた。
もしかすると彼は「答え」を求めていたわけではなかったのかもしれない。ただその不思議さに立ち止まるために、大人に問いかける。
p79
—
だから本当は原因が知りたいわけではなくて、漠然とした不思議があり、そのまま素通りすることができないから、何とか言葉を探して、大人を呼び止めようとする。
だとすると、僕が子どもの誕生の不思議を問うていたのは、不思議を不思議のまま抱えていたい、という祈りの現れなのかもしれない。あのときの実感を、身体と心で忘れずに思い出しつづけていたい、という祈り。
きっと、不思議は感じることしかできないもの。けれど、簡単に消えてしまうから、感じつづけるには、わかろうとして問わないといけない。それでも、わかってはいけない。
この姿勢は、「大人のコトバの位相」と「子どものインファンティアの位相」のあいだ、もしくはふたつの位相を行ったり来たりすること、なのかもしれない。
思えば、この『誕生のインファンティア』という本に惹かれたのは、ふたつの位相を動きつづけているからなのだろう。
さまざまな語りを分析しつつも、明確な答えにたどり着くのではなく、不思議さの実感が描かれ、恣意的な主張もいい意味で見当たらない。
よりよく生きるために不思議がっているわけではなく、ただ不思議さにまみれている。まみれつづけるために、さらに不思議がっている。
僕もそうありたいんだなと、強く思う。一緒に本を読んでいる、となりで不思議に立ち止まってくれる友だちに感謝しつつ、読書会をつづけていきたい。
この章のつづきを読む、第三回は5/20に開きます。読めていない人たちが参加することもあるので、お気軽にいらしてください。

