

その昔、仲のよかった上司に「安久都って、いつ死んでもいいって思ってない?」と言われたことがある。問いかけへの答えはNOなのだが、そのかわりに「いつ消えてもおかしくない」という感覚を抱えている。存在の軽さ。
“こちら”と“あちら”があるとしたら、その境界線に魅せられていて。ふらふらと気づかぬうちに超えてしまうのではないか、と。
この感覚は、明確な「死にたい」ではない。けれど、重なりあっている気もしている。なのに、「死にたい」という言葉では近づけない。
では、この本はどうか。冒頭、このようなことばではじまる。
“朝、ふと目が覚めて、少ししてから「死にたい」と思った。
理由はわからない。わからないけれどなんだか「死にたい」と思う。
そのことについて考えてみる。”
本書では、これを「幽霊的死にたい」と名付け、さまざまな論考を重ねている。幽霊的。理由の有無を問わず、「死にたい」をみつめていた。希死念慮などのことばでは、包含しきれない。
その言説には、膝を打つものもあれば、首を傾げるものもある。でも、それは当たり前だ。ひとにはひとの「死にたい」があって、重なったり離れたりしながら、それぞれは固有なものとして存在しているからだ。
そう思うと、この本は、著者が抱える「死にたい」に対する、まさに「日常的な延命」として書かれたのだと思う。
あとがきに、著者はこう記している。
“私は、皆さんが抱える「死にたい」について、わかっているわけではありません、むしろ、わかるわけがないと思っています。わかるわけがないと知りながら、暗闇で手をのばす姿勢だけでも形にしてみました”
誰かの、けれど、たしかなひとりの延命行為。それは、生を手放さないための切実なあがき。それを形として残してくれたこと自体が、とても嬉しかった。
きっと、ひとりひとりが持つ固有の「死にたい」に即した延命行為をつくりあげていくのだろう。延命の術を探ることが、自ずと延命となっていく。
さて、ぼくが抱える存在の軽さに対して、どういう延命がありえるのだろうか。この本は、宿題をくれる本なのだと思う。

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