
この記事は、8/19に開催した「おろおろする死生学読書会 『声の地層』」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。
https://torobibook.com/seitoshi/koenochiso_0/
本書『声の地層』には、さまざまな語り、つまりは誰かの声が記録されている。それらは、絶えず生まれては、その瞬間から消えていく。たしかに在ったはずなのに、どこかへと流れていく。
だからこそ、著者の瀬尾夏美さんはその声たちを記録しているのだと思う。
じつはわたしは、ひとりひとりが自身の体験と考えを言葉として表現していくことに、けっこう希望を持っている。
p205
わたし/あなたがちいさくとも自ら表現していくことで、細いけれどもしなやかな連帯の糸がつながっていく。
p206
本当にそうだと、心から頷きながら本書を読み進めていた。けれど同時に、一人ひとりが表現することで、そしてそれを記録した途端に見えなくなってしまうものもある、という可能性は忘れないようにしたいと思った。
消えてしまうものを記録する営みの偉大さがあるのなら、消えてゆくさまを味わうという豊かさもあるのかもしれない。
会のなかで僕たちが考えていたのは、あくまでも可能性のはなしでしかないものの、物事にはいつだって表と裏がある。その両義性に自覚的でありつづけられるか。
もちろんのこと、著者の瀬尾さんは自覚的だと思う。受け取ってしまったものの重さに、右往左往している様子が描かれているよう、語りを聞く/記録する/語り継ぐことをただひたすらに称揚しているわけではない。
表を見るには裏を知らないといけないし、裏を知るには表を通らないといけない。どちらにも思いを馳せることで、語られたことも、そこで消えてしまったことも受け取れるようになるのかもしれない。
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つらつらとはなしているなかで、自分の口から「共同体の器」ということばがぱっと出てきた。
本書のp40に「聞き手になる準備が整いつつある人たち」という言い回しがある。誰かの語りを受け取れるくらいに器が広くなった、ということだと思う。
この準備はなかなか整わない。急かすのはもってのほかだけれど、誰かの痛みだったり切実なものを受け取ろう、と自然に思える人は少ない気がする。
けれど一方で、器が自ずと広くなっていく環境、気負わずとも準備が整っていく環境はあり得るのではないか。それはつまり、個人として個人の語りを受け取るのではなく、共同体として受け取っていくということ。みんなで集まって準備をしていくような。
いろいろな人の語りを、みんなで受け取る。それはつまり、人間が持つ裏と表を、みんなで感じるということ。そんな共同体では、分断が生まれにくいのではないだろうか。
両義性に自覚的であるとは、天秤が動かないことではない。たえず天秤が動いていて、それでも倒れないことだろう。常に動きのなかにある。どちらかに切り分けるのがナンセンスになってしまう。
ひとりではどうしようもないことを語ろうとすること、聞こうとすることは、まさにこの天秤の動きと言える。
語り手と聞き手が織り重なっていくことで、共同体としてゆらぎつづけられる。本書で、当事者/非当事者の境界を溶かそうとすることばがあったのも、こういった視点からだったのかもしれない。
語り手はいつだって聞き手でもあるし、聞き手はいつだって語り手だ。語って、聞いて、語って、聞いて…が循環しつづける渦を、どれだけつくっていけるのか。
災禍や痛みの語りにとどまらない問いを、この本から受け取らせてもらった。
