よりよい社会を考えるとしんどくなる。それでも誰かを想う道。

不器用に生きのびあう研究会

先日、友人が開いてくれた「政治や社会について語る読書会」に参加した。課題本を読めてはいなかったのだけれど、えいやと参加を決めて。楽しい時間だった。開いてくれてありがとう。

結果、そこで聞いたこと、話したことが、自分のなかで良い意味での違和感として残っている。この座りの悪さを見つめてみる。

―――

会のなかでも話したのだが、僕は社会や政治への関心が低い。しんどさや「なんでやねん」と思うことは多いけれど、それを社会の問題や課題と結びつけることはなかった。

ひとりは、「しんどさを自分の内面の問題としてしか思っていなかった。でも、ちょっとずつ社会と繋げられるようになってきた」と語っていた。すごいことだ。

僕はなぜ結びつけられていないのか。話しながら考えて出てきたことばは、「政治が身近じゃないのかも」「どうせ変わらないと思っている」「政治と暮らしの結びつきがわからない」「政治が透明な存在のようで、うまくつかめない」などなど。

当日は内面を探りながらひねり出したことばだったけれど、改めて見ると、どれも違う気がしてくる。

僕は、社会や政治への関心が低い。そして、それに対して引け目を感じている。けれど、関心を持てない事実。それでも、今回の会はとても楽しかったこと。

考えたいことがいろいろある。

会の最後に、「政治を考えるって、未来志向なんだと思う」と言った。そして、だからこそ僕は政治を考えられないのかもしれない、と。

未来志向。これからをどう生きていくのか、生きていくこれからをどう創っていくのか。

この視点は、政治を考えるときに自然と持っているものだと思う。それはそうだ。明日世界が終わるときに、政治について思いを馳せはしない。程度の大小はあれど、共同体の維持が前提としてある。

僕は、この前提を抱えつづけることができない。ずっと、ずっと生きる意味を悩んでいる。共同体を、社会を、人類を、地球を、なぜ維持していくのかがわからない。

「もし苦しみもなにもなく一瞬ですべてが無になるスイッチがあったら」という妄想をよくしている。自分で押すかどうかはよくわからない。けれど、他の人が本気で押そうとしていたら、止めない気がする。

存在している、という感覚が軽いのだと思う。何度も引用している大好きなゲーム「キングダムハーツ」のセリフがある。

俺にはよく分からないんだ
この世界が、本当に、本物なのか。
そんなの、考えたこともなかった。

本物の世界ってなんなのだろうか。いま、ここに生きていることは、本当じゃないのかもしれない。僕は、自分も他者も世界も、よくわからない。

朝井リョウさんの『生殖記』という小説では、共同体の維持を「巨大なマットをみんなで運ぶ」と表現していた。そして、主人公である尚成は、「そのマットを運ぶフリをしつつ、腕に力は入れていない。けれど、それがバレてはいけない」という思考をしている。

僕も似た部分がある。なんで巨大なマットを運ぶのかが、本当にわからない。多くの仕事でしんどくなってきたのも、これが原因だと考えている。

けれど困ったことに、共同体の維持に参加できていないことに対して、小さくない引け目を感じてしまう自分もいる。

それは、家族・友人などを含め、大切だと思える存在はたしかにいるから。彼ら彼女らには苦しんでほしくない。意味のわからない発言をする政治家には憤りを覚える。

僕たちが生きている目の前の暮らしひとつひとつが、ないがしろにされている。だからこそ、今回の読書会のよう、対話をして自分たちで足場をつくっていくことの大事さもわかっている。社会は自分と離れた存在なんかじゃない。わかっている。

たとえ小さくても、自分にできることはやっていきたい。なにができるのだろうかと考えたい。だいすきな妻、子ども、家族、友人がいる。生きていきたい。これも本当の気持ち。

けれど、存在している感覚が薄いからなのか、「未来に対して働きかける」という行為ができない。無理にやろうとすると、決まってガス欠をおこし、しんどくなってしまう。なのに、なにもしない選択も、「大切な存在を大切にできていない」という刃として向かってくる。

なんで生きているのか、生きていくのかがわからない。大事な存在がたくさんいて、なにかできることをしていたい。どちらも同じくらい大きいからこそ、どちらに転んだとしても、もう一方に苛まれてしまう。併せ持つことができていない。

政治や社会への関心が低いのではなく、抱えつづけられないのだと思う。

―――

なぜ生きていくのかがわからないまま、自分にできることを重ねていく。ここ数年は、その微妙な道を見つけあぐねているのかもしれない。

その道へつながり得るなにかを、考えてみたい。今回の読書会がたしかに楽しかったという事実は、おそらく道へ通じている。

政治を考えることは未来志向だと書いた。この前提を崩してみることはできないだろうか。これから生きていくかどうかはわからない、けれど、いまここを味わうことはできる。そんなふうに社会のことを考えられないだろうか。

そのとき、そこにあるのは社会などではなく、ただ生身のひとりひとりなのだと思う。そして、その存在をたしかめていくことは、現在志向の政治的/社会的活動と言えるのではないか。

社会は自分と離れた存在なんかじゃない。逆に言えば、社会はひとりひとりからはじまっている存在だ。それならば、ひとりひとりを味わっていくことは、立派な社会的活動になる。

大事なのは、「存在をたしかめることが、なににつながっていくのか」という時間性をもった思考を拒むこと。変化を起こそうとするのではなく、いまここで存在をたしかめあい、実感を重ねていくこと。

きっと僕は、よりよい社会を考えての活動はこれからもできないのだと思う。仕事でも個人での活動でも、巨大なマットを運ぶことはできない。運ぼうとする自分でいることができない。けれど、運び手であるひとりひとりを見ることはできる。

おそらく健全に抱えつづけられるのは、結果的にマットが運ばれていた、という感覚。生きていくのでもなく、生きるのをやめるのでもなく、「気づいたら生きていた」くらいがちょうどいい。

この世界が本当なのかはよくわからないし、なぜ生きていくのかに本気で悩んでいる。生きていくのが怖い。それでも、ひとりの親として、夫として、友達として、人間として、すべてを放棄することはしたくない。生きていきたい。

両者が交わる道は細いかもしれないが、たしかめながら歩いていきたいと思う。それは、本当の気持ちだから。

お手紙のようなニュースレターをはじめました。記事の紹介や、記事になる前の生煮えのものを書いた文章たち。不定期ですが、よろしければこちらからご登録ください。