
本記事は、死や生についての個人の語りを記録した文章です。一部、心が重くなるシーンが記される場合もあります。どうか無理なさらず、触れられそうなときに触れていただけたら幸いです。
また、あくまでも個々人の感覚を記したもので、一般的な思考を表したものではございません。また、プライバシーの観点から、内容を一部変更している場合もあります。
生と死という途方もないものを語った、たったひとりのことばとして、受け取ってください。
はじめて死を意識したのは、多分、僕の場合は飼ってた犬が死んだのが1番最初かもしれないです。多分、小学校のときだったと思うんですけど。低学年だったかな。
近所の動物病院で、病気が見つかって。もうダメかもしれないみたいな感じで、その犬を抱きながら、僕、姉2人がいるんですけど、みんなで泣きながら、家までの300メートルぐらいを帰るみたいな。その記憶がすごく。死に関わる記憶っていうか。
でも、そのぐらいで。あとは、身近な人が亡くなるっていうと、おばあちゃん。おじいちゃんはもう死んでいたので、知らないうちに。おばあちゃんが亡くなったとき、っていう感じなんですけど、片方のおばあちゃんは遠方にいて、年に1度ぐらいしか会わなくて。だから、そんなに、なんか、遠い、ちょっと遠い人だったんですよね。だから、その次に身近な死っていうと、一緒に暮らしてたおばあちゃんが死んだのが、経験した身近な人の死みたいな感じですね。
その体験はどういう体験だったんだろう…。
犬が死んだときは、別れっていう感じだったと思いますね。別れ。受け入れられない別れみたいな感じかな、多分。死について、理解は多分してたと思いますね。それはわかってたのかな。うん、虫を飼ったりもよくしてたからね、そういう小さな死には多分触れてたと思うから。だから、理解は多分していて、うん。だんだん弱っていくっていう感じも見てたしね。
いつも外で飼ってた犬を玄関に入れて、最後はそこで暮らしてたみたいな、そういう記憶もあります。そうだ、蚊の病気にかかって、クラゲみたいなのが、内臓のなかに、寄生虫みたいにいるっていう印象もすごい、強い。おおきいクラゲが何匹もいることがあります、みたいなのを動物病院で見せられて。すごいなって思った記憶がある。
うーん、やっぱり、なんか、なんていうんでしょうね。やっぱ、手に負えないものって感じですよね。子どもながらに、そんな感じだったのかな。
あとは、大学生のときに、小学校のときに仲良かった友達の1人が自殺したっていう話を聞いて。え、みたいな感じ。なんかね、ちょっと前に電話で話したような覚えもあって。それで、自殺して亡くなったって聞いて驚いたみたいな。
でも、すごくずっと仲良かったわけじゃないから。ね、別にそんなに心が動くわけではないんだけど。もういなくなったのか、みたいな感じで。なんか不思議な感じだよね。なんか、ずっと会ってなかったけど、もういないのか、みたいな感じが。不思議だな、という感じはしてて。
うん、なんか、自分がどうしても受け入れられないみたいな死は、まだ経験してないかもしれないですね。おばあちゃんも、年をとってきたし、亡くなるなっていう感じはあって、亡くなっていったしね。ペットの犬は家族っちゃ家族だったけど、うん、悲しかったけど、みたいな。なんか、そう、どうしても受けられないっていう感じは別にない。だから、これからそういうのに、もしかしたら会うかもしれないなと思ってるかもしれない。
子どものころ、死については基本的には考えてなかったと思いますね。自分の死ぬことなんかは、全然考えてなかったです。うん。なんか最近ですよね、なんかそういうこと出てきたのは。親とかがね、亡くなるか、みたいな感じになってくると、ようやく、うん、そういうことを考え出したような気がするな。
あ、でも小さいころによく見ていた夢があって。あれはなんだったのかよくわかんないんですけど。とりあえず、その夢を見たら、もうなんかどうしようもなくて、起きたらもうほんとになんか絶望的な気持ちになっていて。だから、とにかく近くの人に泣きつくみたいな感じで、なんとか、その場を凌ぐというか。そういう感じになってたんですけど。
内容はね、なんか、ルーレットみたいな感じのものがあって、どうしても当たってはいけないものが当たってしまうみたいな。それで、うわぁみたいな感じになっちゃうんですよ。で、泣くみたいな感じの夢を、多分、小学校の中頃から、中学生ぐらいまで、たまに見てた。
うん、結構見てた。何度見てたのかわかんないですけど、そうそう、あれはなんだったんだろうなって。全然わかんないですけどね。なんか、なんだったんですかね。何の意味なのかわかんないですけど、なんか、ルーレットが当たったら近しい人が殺されるみたいな、そんなような感じの夢。両親は、どうも、ゲームとかをやってるから良くないんじゃないかみたいな話とかしてたらしいんですけど。ちょっと、本人も、何がなんだかわからないっていうね、状態なんですけど。
でも、死とかを考えることはなかったです。むしろ、なんかそういう、影のある人に憧れたりしました笑。不幸な人の雰囲気ってあるじゃないですか。なんか、なんかちょっと闇がありそうだなみたいな。全然そういう闇がなかったなと自分では思ってたので、なんか少し憧れるな、ちょっといいな、あの感じみたいな。かっこいいな、雰囲気がいいなって。声もすごい高かったんで。ガサガサした声の方がいいなって思ったりしてました。
ないものねだりというかね。幸せだったんだろうなって、今思えば。そういう感じでしたね。
でも、10年前くらいには他の夢も見てました。近しい人が統合失調症で、近くに住んでたんですけど。その人が自暴自棄になって、なんか無茶なことして命を落とすみたいな夢をたまに見ましたね。最近は見てないけど、なんか、あぁやばい、そうなっちゃった…みたいな、どうしようもないか…っていうような、そういう感じの夢。ちょっと不安があるんでしょうね。
あとは、おばあちゃんが生きてて、普通に話してて、あ、ばあちゃん生きてる、嬉しい、みたいな。夢と、ちょっと現実の混じったような感じで。起きてから、そうだよね、夢だよな、って。
死にまつわる、なんというか、気配っていうのは、そういうところで、夢としてたまに見たりはするっていう感じでしたね。基本的にやっぱり、僕は恵まれてるからかわかんないけど、そういうのは夢で見せられるみたいな感じかもしれないです、そういえば。なんか、現実的に、目の前にはないんだけど、ちょっとそういう気配があると、それがこう、夢で出てくるみたいな。
そうですね、やっぱり、死ぬとかは、やっぱりこう、できれば避けておきたいっていう考えがやっぱりあるんで、そういう風な言い方になると思うんですけど。
うん、そうですね。できれば、死ぬことは考えずにいることが幸せだろう、みたいには思っているかも。病気とかで、例えば、あと数ヶ月ですとか言われたとしたら、もう、なんか、全然考え方とかね、価値観とかがガラッと変わるんだろうなって思うし。やっぱり、それをできるだけ避けたいっていうような気持ちはありますよね。
うん、でも、僕が参加している写真の活動をはじめた方が、癌で死ぬのは、本当は結構楽しいんじゃないか、気持ちいいんじゃないかって話してて。なんだって??と思って。自分が自分に食い殺されるっていうのは、なんか、そう、心地いいはずだみたいなこと言ってるんですよ。
理解はできないですけど。でも、本当はそういうふうに考えれたらまたいいだろうなっていうのも、なんとなく思うんですよね。なんていうんだろうな、うん、だから、そう、嫌なものだとはもちろん思ってるんですけど、でも、なんかどこかで、そう思わないで済むなら、それもいいな、みたいなね。そういう思いもある。そういう思想があるなら、ぜひ知りたいわって。
死ってどういうものなんだろう。やっぱり、なんなんでしょうね、その…終わり、終わりですよ、なんか、その、楽しみの終わり。うん、意識の、楽しい経験の終わりっていう感じです、僕は。うん、そうですね。
でも、もうこれで死んでもいいな、って思えるような経験をたくさんできたら勝ちかなっていうのは、なんとなくあって。勝ちっていうのはあれですけど、そういう体験をできると、もう死ぬっていうことがわかったときに、それなりの満足感を持てるんじゃないかっていう気がしていて。だから、そういう経験を何回かできたっていうのは、よかったなって思いますね。
写真の活動はそういう感じがしてて。なんか、自分の人生よりももう少し大きなものと触れるっていうか。なんか、実感を持って、そういうものを感じれるっていう感じなんですよね。
そうすると、自分がすごく、なんていうんだろう、存在が小さくなるっていうか、そういう感じがして。そういう感覚を味わえるって、すごく、なんていうんですか。充実感があるっていうか、本物の経験、っていう感じがしますね、僕のなかでは。
その活動のなかで、ちょっと死について考えたことがあって。連想ゲームのように、他人の写真に自身の写真をつないでいくものなんですけど、死をテーマした流れみたいなのがあって。それはすごく印象深い流れで。なんか、こういうふうに僕も死にたいなと思ったことがあったんですよ。




月の長時間露光の写真に、赤ちゃんの写真が繋がって。そこから、おばあさんの写真になるんですよ。「そして、またねむる」っていうタイトル。なんかね、多分、もう少しで命が途切れそうなおばあちゃんの流れなんですよね。
で、この、夕闇のピンク色のバラが繋がって。夕方っていうのが、もう少しでこう、暗くなるみたいな感じがして、すごいいいなと思って。もうこれ、僕、完成したなって思ったんですよ。
そしたら、このおばあちゃんをつけた人が、しおれた花の写真もつけてくれて。「もう役割は終わってしまった・・・」っていうタイトル。あ、おばあさん亡くなったのかなと思って、それに繋げる写真を探してたら、これがあって。僕はバスに乗ってたんですけど、信号待ちのとき、隣のトラックの運転手が、こう、何気なく手を外に出してるんですよ。
これ、めっちゃいい繋がりだなと思って。花がしおれて、こう、くしゃってしてるのが、この手のイメージなんですよ。
この流れがすごくいいなと思って。人が死んで、で、それが、なんかこう、信号待ちの何気なく出した手に、少し、こう、宿る感じ。誰も知らないけど、社会の一場面にスッて、ちょっと姿を現して。で、また信号青になったら、手がなくなって、で、そこでもう痕跡が消えるみたいな。なんかこの感じ、すごくいいなと思って。
なんか、こういう弔われ方したいなって、すごい思ったんですよね。僕も、もし死んだら、なんでもいいから、僕の写真を、しょうもない形とかの繋がりでいいから、何かにちょっと宿してほしいみたいな。
で、それで、なんか結構救われるなっていう感覚があるんですよね。この感じがなんなのか、ちょっと気になってるんです。
うん、宿るのは一瞬でいい。全然いいです。なんかちょっとロマンを感じるというか。なんていうんでしょうね。これもなんか、命のちっぽけさみたいな話と近いのかもしれないですけど。
写真を繋げていくときって、全部を等価に見るようなものだと思ってて。モノも人も、全部色と形になるみたいなところがあるんです。それで救われるっていう感覚がある。
なにから救われてるんだろう…。きっと、生きているあいだにいろんなことがあっただろうけれども、それはもう関係ないよと言って、その色と形だけで、なにかと結びつけるっていう感じですかね。どんなことがあろうとも、形で強く結びついて。それは、後悔とか、達成とか、そういった気持ちみたいなものとは全然関係ないんだよ、というような感覚で。そういうものは関係ないまま、何かと強く結びついているっていう感じ。そういう感じの救われ方っていうか。
そうなんですよ。形とか色の繋がりって、めちゃくちゃ強い繋がりっていう感じがしてて。だから、なんていうんですかね、それらが持っている社会的な意味とか、そういうものから解放される、みたいな救い。それが訪れるっていう感じなんですよ。社会的な役割を脱げる。
人間もそうなのかもなって。こってこての役割のなかでしか生きてない人っているじゃないですか。自分にもそういう面があると思ってて。やっぱ、そういうものを救うには、別の文脈を用意してあげよう、っていう感覚の救い。
もう救いですね。救いでしかないような気がします。
役割は仮の姿なのかな。もう、なんか、かわいそうに…みたい感じですね笑。でも、そうです。そういう感覚。写真の活動のなかで感動しているのは大きいかもしれないんですけど。
その役割を脱いだときに、キラキラって、めっちゃ輝いてるやんみたいな、お前かっこいいやんみたいな感じがあるんで。だからこそ、写真とかモノに関しては確実にそう言い切れるところがあって。
それを人に例えられるかはわからないんですけど、でも、そういう角度から話を広げてったら、もう、かわいそうに、みたいな、お疲れ、みたいな感じです。
社会性っていうのは、やっぱりなんか、余計なものって感じです。活動の視点で見ると、そうですね、完全にそう。このチョコレートの箱の模様とかって、完全にもうどうでもいいじゃないですか。ここにハートがあるとか。ここにある色の意味も、ほんとどうでもいい。
でも、実は、全てのモノが社会性以外の意味を持てるんですよね。そういう環境が、僕がずっとハマっている活動なので。だから、そういう、全てのものが社会性を脱ぎ去った世界。
さっき言った弔いは、、そういう純粋な世界に自分を置いてくれたら、もう幸せだみたいな。完全に弔い的な感じなんですよね、それは。
だから、誰かに遺言で残しときたいくらい。僕が死んだら、その活動のなかでなんでもいいから繋げて、「◯◯は死にました」ってタイトルをつけてくれたらいい。
「生きる」も、生活していると、どうしても社会的な文脈で考えてしまうんで、そうすると途端によくわかんなくなっちゃうんすよね。なんだろうなみたいな感じはしちゃう。
人と人との関係性で、社会的文脈以外のものってどういうものがあるんだろうって。もしかしたら、全部社会性なんじゃないかっていう感じ。そんなことないですかね。社会ってなんだろう。わかんないですけどね。
生きる意味、ですか。意味なのかわかんないですけど、僕は、なんか、感動みたいなものですね。やっぱりそういうもの。感動というか、なんか、確かなものに触れた感覚っていうか。そういうような感覚を求めてしかいないみたいな感じです。もちろん、もうちょっとくだらない価値観も抱えてますけど。いろんなものを抱えてるなかで、でも、意味みたいなものを考えたときには、そういう感じになると思いますね。「あれは確かなものだったな」って死んでいくんだろうな、みたいな感じがします。
うん、日常の些細なことは不確かな感じがしますね。僕の場合は、芸術的な感動っていうのが一つあって。他にも多分あるとは思うんです。恋愛。恋愛とかもそういうところに入るのかもしれないですよね。なんか、自分がもう自分でなくなるような感覚とかってあるじゃないですか。そういう感覚とかも、それに入るかもしれないです。
なんですかね。予定調和じゃないっていうか。なんか、「はいはい、知ってる知ってる」みたいなものじゃないっていう。そういうものを探し求めているみたいなとこ、あるかもしれないです。
僕、計画性とかも全然なくて。就職活動も全くしなかったですし。なんかこう、面白そうだなっていうようなものに、なんとなく進んでいくみたいな。なんかすごい楽観的な感じでしたね、ずっと。
そこで確かなものに出会うと、「なにそれ!」って「これなに!」って。楽しいとか、ワクワクしているとか、そういう感じに近いですね。「おお」みたいな。そういう感じ。
穏やかな感じとかも好きは好きなんですけどね。気持ちいい感じとか。それは嘘じゃないですけど、ほんとに求めてるものは、やっぱりそういうものじゃないかもしれないですね。穏やかな空間と、そのなかにいる自分みたいなのも、死ぬ間際とかにはいい思い出としてあるかもしれないですけど。
うん、ナマの経験って感じ。僕の感覚としては、なんか、言葉で話したりすることって、なんか、そんなに大したことはないなって感じがあるんですよ。写真の活動での感動を前にしたら、なんか、自分の人生のなかで、話して交換した情報の量って、すごくちっぽけなものとして相対的に感じるところがあって。
活動の流れのなかだと、何十倍、何百倍みたいな情報交換をしてるっていう感覚があって。そういう感動というか、感覚みたいなものを体験すると、確かなものに触れたって感じがすごくする。そっちが確かだなっ、て感じなんです。
たしかに、なんでちっぽけさを感じるといいんだろう。もう、喜びしかないですけどね。
なんでしょうね。性格が悪いんですかね笑。
やっぱりこう、自分がわかることしかなかったら面白くないじゃないですか、みたいな、そういう感覚かもしれないですね。自分がすごく小さいっていうことは、なにか面白いものもたくさんあるんじゃないかっていう、その世界の広がりみたいなものを、そこで確信できるみたいな。
そういう感じだったらいいですね。俺たちもお前らも全員くだらねえんだよみたいな、そういうのだったら嫌ですけど。
広がりを感じる方が面白いじゃないですか、みたいな。そうありたいなっていう感覚。もしかしたらね、そう感じれて嬉しいみたいなものもあるかもしれないですね。
子どもが生まれたときも、近いものがあったかもしれないですね、手に負えない感じがしました。なんていうんですかね、こう、その現象を受け止めきれないみたいな。全く言葉にはできないんですけど、なんか、そう、リアル。うん、なんかリアルで、くっきりしてるみたいな。よく見えるみたいな。なんかすんごいくっきりよく見えるみたいな。
うーん、なんかこう、この存在がどういうものなのかっていう、認知的なものを重ねられないみたいな。ただ、くっきりそこにいる、みたいな。
だから、あんまり言葉にはならないですね。言葉にはならない。感動のなかで、あたふたするしかないみたいな感じっていうか。
なんで確かなものを求めてるんだろう。僕は、なんかね、理屈的なものではなくて、もう体験したからっていう感じがあります。うん、純粋なものの輝きみたいなものを感じたっていう体験。それを人とか人生みたいなものも同じように語れるのかは、ちょっとまだわかんないですけどね。
なんか、人よりも、その人の作品みたいなものの方が、もしかしたら尊いとか、なんか本質的なものなのかもしれない、ってちょっと思うところがあって。人よりも、その人の作り出したものとか、考えとかの方が、なんか、メインストリームっていうか。その世界観はまだ味わいきれてはないんですけど。描ききれてもいないんですけど、そうなってくると、どういう世界なんだろう…みたいなのも、面白そうだなって。
だから、結構、人と人の距離感も、そういう距離感が意外と1番いい距離感だったりするのかなって。自分の作品とか考えみたいなものが交流していて、人は、その後ろでその交流の仕方を見ているというか。その流れを感じて喜ぶみたいな。それが結構心地よかったりする。それが意外といい距離感だったりしないか、みたいな。
写真の活動の世界は、まさにそうなんですよね。それを他の世界に当てはめていいのかはわかんないですけど。そうすると、一体どういう世界なんだそこは、みたいなのは、すごい興味がある。
その世界観だと、まだ未知の路線がいくつもあって、すごいいろんな可能性があって、そのなかの可能性を、「なんかこれ、ちょっと新しくない?」って誰かが言って、「確かに新しいかも!」みたいな感じで、新しい場所が見つかっていくみたいな。そういう感覚かもしれないですね。そういう世界観かもしれないです。
なにか決められたおっきいものの流れのなかにいる、っていうよりかは、もうちょっと探検みたいな感じですね。結構自由に、のびのびと、みたいな感じです。
ああ、そうですね。作品同士のコミュニケーションの方が、純粋なんだと思います。純度が上がる。その流れのなかで、元々の人間の方もなんか救われるみたいな。
社会性とか役割とか、写真の活動のなかで考えていたものは、自分が生きるみたいな話とも全然繋がる話なんだなって、やっぱり死とか生きるっていうのとも繋がる話ではあって。その軸を拡大解釈していくのもやっぱ面白いなってすごい思いましたね。
実際、僕は生きているなかで、そういうふうに考えてるかもしれないなって。社会性超くだらねえわみたいな笑。そういう発見がありました。
でもそれって、なんていうんですかね、ニヒリズムみたいな、全部に価値がないっていうんじゃなくて。色や形の単純な繋がりみたいな、素朴な関係性みたいなもので、もう十分でしょ、みたいな。それこそが、高尚な繋がりみたいに思われてるものよりも、ものすごいエネルギーを持ってるみたいな。そういう救われ方なんですよね。
うん、やっぱり救い。僕の場合は、全部に価値がないっていうのが救いなわけじゃなくて、なんかすごく素朴な、そういう感覚に感動した自分みたいな、その価値を感じれたっていうところでの救いみたいなものがある。
だから、それをやっぱり膨らましていたいなって、再確認と言語化させてもらえてよかったです。
【なぜ在るのか–死生観をたずね歩く–】
みなさんの“死生観”を聞かせてもらい、書き残していく活動です。文章は、すべて匿名で公開予定。
死生観と言われると身構えてしまうかもしれませんが、おはなししながら浮かんできたものを見つめていくので、形となっている思考がなくても大丈夫です。
「子どものころ、“死”についてどう思っていましたか?」などの投げかけからはじめます。
糸の端っこから、少しずつ、少しずつたどっていけたら嬉しいです。
もしおはなしを聞かせてくださる方がいらっしゃったら、下記のフォームからご連絡いただけますと幸いです。
https://forms.gle/TBRW868R2ar9YkpGA
