無と有の行ったり来たりに浮かぶもの。–『誕生のインファンティア』読書会(3/4)レポート

死・生におろおろする読書会

本記事は、5/20に開催した「おろおろする死生学読書会 『誕生のインファンティア』第三回」を受け、場で出た話題を含めつつ、自身の思考を書き記したものです。

次回で最終回。6/3の20時から行います。
https://orooroshiseigaku.connpass.com/event/356391/

第一回、二回のレポートはこちら。
https://torobibook.com/seitoshi/250423/
https://torobibook.com/seitoshi/250508/

今回は第三章。副題は「なぜ私を生んだのか」。

1歳半になったお子がいるからだろうか、この言葉を見るだけで手足がスッと冷たくなる。

子どもを迎えることについて、僕はずっと悩んでいた。生まれてくる子どもは、「生まれてきたい」という意志を持っているわけではない。親である我々の、ある種の傲慢。もしいつの日か、「なんで自分を生んだのか」とお子に問われることがあったなら、僕は返す言葉を持っているのだろうか。

第三章のなかで、なんなら、この本を読んできたなかで最も揺さぶられた箇所がある。

どうせならぼくは生まれたくなかった。その密やかな声を「未生怨」という言葉で一般化したいのではない。そうした声を理論の枠に回収してはいけないのだと思う。本書はこの少年に何も答えることができない。ただその声を聴く。本書のすべての考察によって器を広げ、小さな声のひとつひとつに耳を傾ける準備をする。

p140

この本を読んでも、死生についていくら考えても、切実な語りの前では沈黙せざるをえない。返す言葉なんてない。けれど、その語りに、その声に耳を傾ける自分にはなれるかもしれない。

もし将来、お子が「生まれたくなかった」と語ったとき、その声を受け止められるのか。その小さな声をなかったことにしない自分でいれるのか。

読書会のなかでも、「返す言葉を失ってしまう」ことについて話していた。僕も経験がある。その人の存在にべったり貼りついた語りを受けて、なにも言えなくなったこと。あの場に出していい言葉を、僕は持ち合わせていなかった。

でもきっと、どんな思考や経験を積んだとしても、言葉では太刀打ちできないことがある。切実な語りは、普段生きている「大人のコトバの世界」とは違う位相、この本でいう「インファンティアの世界≒切り分けられない世界」の位相に宿る。

話していて気付いたのは、この「言葉を持ち合わせていない」という感覚が、どうやら僕にとってとても大切だということ。心地よいときもあれば、自分の不甲斐なさを痛感することもあるけれど、どちらの場合も「切り分けられない世界」の位相に触れている。

この違う位相は、僕がずっと抱えている「なんでいまここに在るのか」と呆然とする感覚とも響き合うんだろう。どこか、自分の存在をたしかめることにもなっている。

消えてしまいそうな小さな声に耳を傾けるとき、言葉を返せなかったとしても、自分も相手も「いまここに存在していること」をたしかめられるのかもしれない。

私たちは、どういうわけか、生まれてきた。なんの根拠もなく生まれてきた。そして気がついた時には、既に、いた。この自分として生きていた。気ままに「ばらまかれた」だけの偶然。「存在しないこともありえた(非存在の可能性)」。

p152

存在しないこともありえた。でも、いまここに存在している。無でもあり得た有。無がすぐそばにある有。

会のなかで、松岡正剛さんが「ウツとウツツ」について語っていることを教えてもらった。

よく比較してみればわかるように、ウツとウツツはひとつながりの言葉なのである。かなり似た言葉になっている。実際にも言語学的な派生関係からみてもウツという言葉からウツホやウツロなどが派生して、そこからウツツという言葉ができあがっていった。つまり、古代日本語の太初のところにウツがあって、そのウツ(空)に何かが介入していつのまにかウツツ(現)になった。そういう順番だった。

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最初の状態に「空」とか「ない」という負の状態があって、そこに心の動きや風のいたずらのようなものが介入してウツロヒがおこり、そのうえで実在する「現」なるものが流れ出てくるかのごとくリアルに認められるようになるということだ。

https://1000ya.isis.ne.jp/0017.html より

「無=ウツ」が「ウツロウ」ことで「有=ウツツ」となる。うまく掴めきれてはいないけれど、これはきっと「ウツツ」が「ウツ」になることも示している。

有も無も、きっぱりと分けられるものじゃないのだと思う。いま有るとしても無かったかもしれないし、明日無くなるかもしれない。いま無いとしても、そこにはなにかが有るかもしれない。

僕らはいつのまにか生まれていた。そして死んでゆく。吹けば消える儚いものでもあるし、唯一性をもった命でもある。取るに足らないし、かけがえもない。

無と有の行ったり来たり。その運動のなかにしか浮かび上がってこない位相。この章の最後では、そんな位相を予感している。

あれこれ考え尽くした挙げ句に、恨むのでもなく、感謝するのでもなく、ただ受け取る。いつの間にか運ばれている。切ない話を聞き、悲壮な叫びを耳にしながら、それでも与えられた時間を、いつの間にか運ばれているように、丁寧に生きてゆく。そうした地平。

p164

存在しないこともありえたこと。存在したくないと願う人がいること。消えたくないと思う人がいること。誰かを失いたくないと祈ること。いまも存在は消えていること。いまも存在は生まれていること。

それらすべてを分けることなく、ただ受け取ることができる位相を予感し、「器を広げ、小さな声のひとつひとつに耳を傾ける準備をする」のだろう。