火は揺れることで火になっている。

火守りのつれづれ

ここ二週間ほど、少し調子が悪い。不安定な天気や暑さに振り回されているのも大きいのだろうが、そうやって外部のせいにしてゆっくりできれば苦労はなくて。内側にうずまくもろもろとたたかっている。

もろもろ。

頑張らないと変わらないのに、なんで頑張るかがわからない。本当に欲しているものと救いを得たくて欲しているものとの、微妙な境目をいつまでも見極められない。社会の壊れた部分を目にすると、小さくても動かねばと思うと同時に、そこまでしてなんで生きるのかとも思い、心が引き裂かれていく。

こういった思考が暴走しないようにたたかっていると、基本的にはうっすらぼんやりしている「生きつづけるのが怖い」という感覚が、むくむくと大きくなってくる。

この感覚をうまくつかめていない。いまはたしかに幸せなのに、生きつづけるのが怖い。いわゆる「足るを知る」で解決するものでもない気がする。いまここにある幸せは十分に受け取っているけれど、それとはまったく別の次元になにかが横たわっていて、怖くなっている。

それは虚無感とでも言えるもの、なのだと思う。あらゆる存在のちっぽけさ、無意味さ、それなのにみな必死に生きている事実を思うと、おなかのあたりが気持ち悪くなってくる。

死にたいと思ったことはあまりないけれど、消えてもおかしくないな、とは感じている。ふっと吹かれたら、その瞬間消えてしまいそうな火。

その火のはかなさに耐えられなくて、確固たるなにかを欲してしまう。けれど、そんなものはないとも知っている。はかないからいいとも思っている。その両極端をうまく結べず、心が引き裂かれそうになるとき、生きつづけるのが怖くなるのかもしれない。

とはいえ、「あらゆる存在は意味がないからね」と、ちっぽけさをことさらに強調するのは、確固たるものを求めることの裏返しでしかない。それは楽になりたいだけ。

さきほど、存在を消えそうな火に例えた。火が好きだ。火は揺れている。逆に言うと、揺れていなければ火ではない。

書いていて、存在もそういったものなのかもしれないと思った。

そうだとしたら、僕が見つめていきたいのは、存在という火のちっぽけさでも、その火を大きくすることでもなくて、「その火は揺れることで火になっている」という事実なのだと思う。

存在も、揺れることで存在しつづけられるのか。揺れるとは、さまざまな実感に出会いなおしつづけること。だれかと、なにかと交わることで、自分のなかに実感が生成されつづける。ゆらゆらと揺れている。

以前インタビューさせてもらった人は、「らしさ」についてこう言っていた。

きっと、揺らぐものだと思います。問い直しながら、変化していくものなんじゃないかな。
https://soramido.com/nakagawa-kosuke

問いなおして、変化して、生まれなおして、また崩れて。その絶え間ない生成と消滅のなか、僕という存在が滲んでいくのだと思う。そこにたしかに在るものとしてではなく、揺れのなかにしか浮かんでこないものとして。

火は揺れることで火になっている。その事実を忘れずに、揺れていたい。

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