「いいものをつくる」って、それによって、ここじゃないどこかへ連れて行かれること

火守りのつれづれ

他の記事で書いているよう、本をつくりはじめている。いろいろとやってみたいことはあるし、あれこれと考えている時間は楽しい。この流れでつくっていこう、これで大丈夫とそのときは思う。

けれど、天気だったり子育てだったりで少し調子が崩れると、途端に暗いトンネルに迷い込み、思考がおかしくなってくる。

こんなものをつくって意味があるんだろうか。二番煎じでしかないな。しょうもないものしかつくれない。

この思考がおかしいのか、あれこれ楽しめているときの思考が歪んでいるのか。はたまた、そのどちらもなのか。

いままでは「結局、自分が感じたいものを感じられたらいいんだ」と思いなおしてトンネルから抜け出していた。それは間違っていないし、そのおかげでつくれたもの、書けたことばも多い。

でも、今日はふと、それではだめなんじゃないかと思った。なんというか、このままだともうどこにも行けないんじゃないかと。

たくさん文章を書いてきたし、昨年はZINEもつくった。本もつくろうとしているし、読書会などの場もひらいている。ほそぼそと短歌もつくっている。

「ものをつくる」を広義にとらえると、僕はたくさんものをつくってきた。きっと、これからもつくっていく。それなら、いいものをつくりたいと思う。でも、「いいものをつくる」ってなんなんだろう。

自己満足万歳だとは思っているけれど、たぶん僕にとっての「いいものをつくる」は、自分ひとりだけがいいと思うものではない。ない、というよりは、なくなってきた、が正しそうだ。

文章を書きはじめて、約6年。あっち行ったりこっち行ったりしてきたけど、まがりなりにも「ものをつくる」をしてきたなかで、僕にとっての「いいもの」がはっきりしてきたのだと思う。

そして、その「いいもの」をつくることは、「自分ひとりだけがいいと思うもの」をつくることでは届かないと気付いた。僕はもう、自己満足だけでは満足できなくなってしまったのかもしれない。

ぼーっと考えていて、ふと浮かんできたのは、「いいものをつくるとは、それによって、ここじゃないどこかへ連れて行かれること」だった。

きっと、つくっていくなかで僕が感じたいことは、ここにある。

つくったものがどこかに連れて行ってくれて、そこで誰かと出会い、その誰かとまたつくって…という流れに身を浸して生きていきたい。右往左往しながら、下手なりにつくってきた約6年を経て、ようやく思えたこと。

うっすらと感じはじめていたからこそ、「本をつくらないといけない」と思いはじめたのかもしれない。

―――

「よし、いいものを、ここじゃないどこかに連れて行ってくれるものをつくっていこう」と考えたとき、なんの無理もなく自然に、「勉強したい。経験したい。修行したい」と思えた。いまのままでは足りないなと、自己否定のような温度ではなく、淡々と思うことができた。

それは、調子が悪いときの「なんの意味があるんだ…」とも、調子がいいときの「これで大丈夫」とも違っていて、地に足がついているような気がする。

足りていないものを見るということは、すでにそこにあるものも同時に見るということで。穴だけを見るのも歪んでいるし、穴を見ないようにするのもレンズが曇っている。

どちらも見ていくことで、健全な努力ができるし、その健全さがあってようやく忍耐強く「つくる」に向き合えるのだと思う。

その先で、「いいものをつくる」をしていけたらいい。

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